2024夏一首評11
怒っている人が映画の中にいる それは十分理解ができた
/郡司和斗「A」
というのは前提として……みたいな話を続けなきゃいけないような内容の、確認、みたいな歌の感じ。このあとになにか、だとして、的な否定が来そうな気配に、その会話の相手ではないはずの自分もちょっとどこか身構えてしまう、気がします。
なんというか、冷静さの主張がやや過剰に感じられるんですね。「怒ってる」ではなく「怒っている」としっかり「い」を入れてくる。「わかった」ではなく「十分理解ができた」とやたら丁寧に言ってくる。この「が」はかなり意識的な印象ですよね。もちろんそれがごく自然な喋り方なんだというひともいるんですけど、この歌はやっぱり、あえて言ってきてる感じがする。
あくまで「映画の中にいる」ということではあるけれど、それが「怒っている人が」という、感情の強い部分の話であることは対比を生んでいると思うんですね、この冷静な主体像、冷静であることをとりたてて主張しているかのような主体との。
この世界にある、一種のマウンティングというんですかね、ポジションを決めてくるような言い方の、サンプリングでもないんだろうけどそういうものを連想させてくる言葉の運用が、しっかり怖い。でもいっかい立ち返ると、丁寧なだけなんだよな、とも思う。なんでそれでそう思うのか、という読者のそれを照射してくる。そこまで含めてのこの歌の、コントロール、を想わされる。
あと何回ぼくたち見つめ合ったなら月に届くの折り紙の月
光のようなが比喩ではなくて本当のような友達また何年後
/郡司和斗「A」