リード文100本ノック#8―ニッポン複雑紀行

リード文をすらすら書けたらいいなあという思いで、リード文をタイピング写経してみる週1企画。第8回はニッポン複雑紀行さん。まず「ニッポン複雑紀行」というタイトルがいいなあ。まだ見ぬ土地に出掛けるときの高揚感を思い起こさせる。記事を通してまだ見知らぬ世界を駆け巡ろう、と好奇心をくすぐっているようにも思える。記事は、入口となるリード文も、出口となる編集後記も丁寧に書かれていて、書き手の思いが伝わってくる構成です。3つ目のは今まででいちばん長かった・・・!今回は3本なので計38本。

冷戦下の代理戦争から東京の生活戦争へ。シャン民族料理店「ノングインレイ」スティップさんの人生

東京メトロの広告や人気テレビシリーズ『孤独のグルメ』にも登場するシャン民族料理の有名店「ノングインレイ(NONG INLAY)」(東京・高田馬場)。

だが、現在72歳のオーナー、ハンウォンチャイ・スティップさんが日本で暮らすことになった理由までよく知る人は多くないかもしれない――。それは、冷戦下に大国間の代理戦争の現場ともなった「ラオス内戦」だった。

ベトナム戦争の影に隠れてあまり知られていないが、ラオスは「史上最も空爆された国」とも言われ、当時の空軍によって2億6000万発もの爆弾が投下されたという。ラオス内戦はベトナム戦争と同じ1975年に終結し、左派のパテート・ラオが勝利、アメリカが支援した王政側の敗北に終わった。

そんなラオス内戦にスティップさんはどう関わっていたか。実は、米軍やCIAの通訳として従事していたのだ。それは彼にとって「内戦の終結(敗北)」が自らの「命の危機」であったことを意味する。彼がラオスの故郷を脱出せざるを得ず、タイの難民キャンプでの暮らしを経て1983年に日本へとたどり着いた直接の原因がここにある。

スティップさんに聞きたいことはたくさんあった。もちろん日本に来る前のことを伺ってみたい。しかし、すでに彼は40年近く、つまり人生の半分以上を日本で暮らしてもいる。ノングインレイを開店するまではどんな風に過ごしていたのだろう。日本を選んだ決断を、今どんな風に思っているのだろうか。

国家や戦争に翻弄され、土地から土地へと移動を重ね、高田馬場の駅前の雑居ビルに、なんとか一つの居場所をつくった。彼が長い時間をかけ、72年の人生を振り返って話してくださったことを、この記事では伝えたいと思う。

(話者の紹介+話者の経歴ハイライト+問いかけ+本文の内容紹介)

日本と台湾の狭間で「無国籍」を生きた少年

世界のどの国からも国籍を認められない「無国籍」とされる人々がいる。

多くの人が強く意識せずに持っている「国籍」を、その人たちは持たない。遠い外国の話と思うかもしれないが、日本にも無国籍者は少なくないと言われる。三重県で生まれ育った弘明さんも、そのうちの一人だ。

彼は日本の国籍を持たず、それ以外の国籍も持たずに育った。幼い頃から乳児院に預けられ、18歳までは児童養護施設で暮らした。

日本で生まれ、日本で育ったにも関わらず、弘明さんはどのような経緯で無国籍になったのか。日本の制度の中で、なぜ彼の無国籍は放置されてきたのか。弘明さんはこれまで、どんな人生を過ごし、何を感じてきたのか。

弘明さん、最も近くで彼を支えた児童養護施設の方々、そして彼の国籍取得に奔走した弁護士から、話を聞くことができた。

(テーマに関するマクロな情報+話者の紹介+問いかけ+本文の内容紹介)


釜ヶ崎の労働者は外国人も非合法も同一賃金や。破る業者は許さん

午前5時。大阪、釜ヶ崎。

日本最大の「寄せ場」があるこの街では、今も陽が登る前から当同社と手配師の間で仕事の交渉が行われている。昨日も、今日も、明日も。多くの人々がまだ寝ているうちいに、日雇い労働者たちは行動を開始する。今日の賃金を稼ぎ、今日の生活を続けていくために。

(寄せ場:日雇い労働者の「寄り場」を中心とする居住まで含んだ生活拠点地域/寄り場:求人・求職活動の実際の拠点)

「はい車通りまーす!」

労働者を集める求人車両が「寄り場」に入ってくるたび、蛍光色の上着に身を包んだ吉岡基さんが大きな声をあげる。彼が声をあげると、同じ安全誘導作業の仕事をしている労働者たちも、彼に続いてやまびこのように繰り返す。

「車通りまーす」
「車行きまーす」
「バックで入りまーす」

釜ヶ崎の寄せ場を「過去の歴史」と見る方もいるかもしれない。だが、規模こそ大きく縮小したとはいえ、今も寄せ場としての釜ヶ崎は生きており、少なくない労働者が一日一日の賃金を得るための大切な回路として機能を続けている。

釜ヶ崎には仕事を求めて日本中から労働者が集まる。いや日本国内に留まらず、海外から釜ヶ崎を目指す人々も数多くいた。吉岡さん自身は北海道の生まれだが、1980年代から釜ヶ崎で日雇い労働者となり、様々な職種で経験と技術を身につけながら、主に鉄筋工の日雇い労働者として数多くの現場で働いてきた。

牧師だった父のもとに生まれた彼には、一人のキリスト者として「釜ヶ崎キリスト教協友会(協友会)」の活動に長く関わってきた一面がもある(現在は共同代表)。協友会は1970年に結成。キリスト教とのつながりを基盤に持つ様々な団体で構成され、釜ヶ崎で生きる労働者や家族、子どもたちを支援するためのネットワークだ。

かつてこの街が最盛期の一つを迎えたバブル景気のころ、数多くの外国人労働者が日本人の労働者と共に釜ヶ崎を通じて日雇いの現場に入っていった。当時はまだ日系人の受け入れ拡大も技能実習制度の創設もなされていない。そんな中で、人手不足を埋め合わせるために労働者として広く活用されたのが「就労資格のない外国人」だった。

政府の統計でも、在留資格の期限が過ぎた「オーバーステイ」の外国人はバブル期前後に大きく増加し、ピークの1993年には30万人近くを記録している。現在の技能実習生や留学生に迫る規模の人数であり、政府も当然この事実を認識していたはずだ。

私が文献を通じてのみ知り得たこうした歴史を、吉岡さんは自分自身の目で見、自らの身体で経験している。釜ヶ崎という地域で、そして日雇い労働の日々の現場の中で、彼は実際に数多くの外国人労働者と同じ現場で働き、彼らの家族と地域で互いに支え合い、共に暮らしてきた。

働くため、生きていくために、様々な土地から人が集まる街。出稼ぎや日雇いという経験を、異なる背景を持った人々が共に噛みしめる街。雇う側から見れば、必要な労働力をその時の都合に応じて柔軟に確保できる街。そんな「釜ヶ崎」のことを、吉岡さんに聞いた。

(場所の描写+場所の歴史+話者の紹介+テーマに関するマクロ情報+本文へのイントロ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?