リード文100本ノック#21―こここ
リード文をすらすら書けたらいいなあという思いではじめた、リード文を模写してみる週1企画。もはや最初の企図からは脱線してただの写経に戻っています。今日は先週のぶんとして、マガジンハウス社の新しいウェブメディア(21年4月スタート!)「こここ」。さがすがマガジンハウスなおしゃれなインターフェイスです。今回は2本で、累積81本。
さまざまな側面をもつ「わたし」と「あなた」をそのまま大切にするには?美学者 伊藤亜紗さんを訪ねて。
会社では営業担当だけど、プライベートでは当然違う。実家にいるときは子どもだけど、行きつけのバーでは全然違う名前で呼ばれてる。社会に生きるわたしたちは、いろいろな「わたし」を生きています。
誰もが、無限に広くて、底なしに深い。だから、雑にカテゴリ分けされたり、レッテルを貼ってこようとする人に出会うと無性に居心地が悪くなる。わたしもあなたもそのまま、”無限”なまま、個と個で出会えたらきっともっと楽しいだろうに。
東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院准教授の伊藤亜紗さんは、さまざまな身体をもつ人とともにその身体について研究を続けています。
”Aさんの身体のことを、Aさんがよく知っているわけではないじゃないですか。私もAさんも知らないAさんの身体について、言語を使って一緒に研究しましょうということなんです。(中略)いかに早く「わからないところ」にいくか。「早く一緒に“沼”に落ちよう」みたいな。”
さまざまな身体をもつ共同研究者たちと、一緒に”沼”に落ちるということ。そこには、個と個で出会うことのヒントがありそうです。「個と個で出会うために大切なふるまい」について、亜紗さんにお話を訊きました。
はじまりの、「誰もが、無限に広くて、底なしに深い。だから、雑にカテゴリ分けされたり、レッテルを貼ってこようとする人に出会うと無性に居心地が悪くなる。わたしもあなたもそのまま、”無限”なまま、個と個で出会えたらきっともっと楽しいだろうに。」ということばがとってもいいです。カテゴリ分けされることへの違和感はそういうことか、と腑に落ちました。
差別や人権の問題を「個人の心の持ち方」に負わせすぎなのかもしれない。「マジョリティの特権を可視化する」イベントレポート
職場やSNSで見聞きする、さまざまな差別やハラスメント。
「なんでこんなことが起こるのだろう」「もっと平等な社会になったらいいのに」「人としての権利が当たり前に守られるべき」と、当事者の叫びに胸を痛める人は少なくないはずだ。
「私は”中立”。差別なんてしないのにな」と思うことだって、正直あるだろう。
けれど実際には、”中立”で何もしなければ差別にはあたらないという意識そのものが、差別的な社会構造に加担してしまう危険性をはらんでいる。
こう指摘したうえで、問題を個人の態度に由来するものではなく、「マジョリティの特権」から捉えようとするのが、上智大学外国語学部教授の出口真紀子さんだ。
差別や人権の問題は、これまで差別されるマイノリティ側、社会的に弱い立場の人に焦点を当てて論じられてきた。しかし、マイノリティ側が被る不利益の裏側にあるマジョリティの特権について考えなくては問題は解決しない。
そう考える出口さんの視点を学びたいと、こここ編集部は2021年5月9日、彼女が登壇するオンライン講演「マジョリティの特権を可視化する」(対話と共生推進ネットワーク主催)を取材した。
イベントレポートもこんな感じに自分の言葉にして書けたらいいなあと思いました。「マジョリティの特権」、言われてみれば当たり前のことのようだけれど、なかなか意識されづらいこと。たしかに、マジョリティの特権が理解されてこそ、自己責任論からの脱却のスタートラインに立てるのかもしれません。
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