生徒の話を聴くということ
コンビニほどのカウンセリング施設を
信田さよ子氏は著書『カウンセリングで何ができるか』で、「コンビニほどのカウンセリング施設が必要だ」と言った。
本当にその通りだと思った。同時に、どうやったらそんな仕組みが可能なのかと半ば絶望した。
とりあえず、その1軒になれることを目指して小さな学習塾を作った。
東畑開人氏の著書『ふつうの相談』を読んだ。
非常に勝手ながら、「信田さんが立てた問いへの、東畑さんの答えだ」と思った。
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「学習塾」を名乗ること
カウンセラーが被震災地で支援活動を行う際に、「話を聴きますよ」と言うと「聞いてもらうだけじゃどうにもならない」となってしまう。そこで「血圧を測りましょう」と巡回し、測定しながらすこしずつ話を聞いたりするのだそうだ。
私が塾を開いたのも、同じことだと思っている。
勉強を教えることは、血圧測定に過ぎない。
「学習塾」を名乗るからこそ関わりあうことができ、手を差し伸べられる子どもたちや、保護者たちがいるはずだと思っている。
転職・就職支援をしている友人と
以前の仕事仲間と飲む機会を得て、当然ながら、お互いの近況を報告しあう運びになった。
たまたまか必然か、同席者3人はすべて転職・就職支援の仕事をいた。
(心理職でない面々で「カウンセリング」という言葉を飛び交わすことはひどく恥ずかしいものがあるが、我慢しながら)それぞれのカウンセリングのありかたの違いにおどろきながら、教育的カウンセリングのあり方を内省するための良い機会になった。
自分は何のために生徒や保護者の話を聴いているのか、対生徒の「関係構築」とは何なのか、改めて考えた。
生徒との「関係構築」
向かう先は「自己探索」と「自己決定力」
生徒との関係構築は、仲良くなることではなく、当然ながら従属関係をつくることでもない。
向かうところは本人の「自己探索」および「自己決定力」だと思う。
段階① ストレス対処・心理的安全性の確保
「話すことでスッキリする」「どんな話でも否定せず聞いてもらえる」「私のことを理解してもらえる」「私が私のままでいられる」といった感覚が得られること。
こちらは〈同感〉や〈評価〉をせず、〈共感〉と〈エンパワメント〉をする。
段階② 自己探索および自己決定
【外的】から【内的】へ。
「話したいことが話せた・理解してもらえた」の先に「私はどうしたいのか・どう感じるのか」があり、
「この場では評価をされない」の先に「自己選択・自己決定」がある。
こちらは、生徒の自己探索・自己決定に対して〈鏡〉であり、ただ〈見守る〉。
段階③ 目標設定や行動変化
再び【内的】から【外的】へ。
適切な自己探索や自己決定を土台にして、目標設定(成績、志望校など)や行動変化(勉強、時間管理など)が生まれる。
こちらは、〈指示〉をせず、最低限の〈提案〉をする。
競争原理から一歩外に出ること
子どもたちは日々、他者との「競争」や「比較」に晒されている。すべての段階において、生徒の思考や価値判断を競争原理の外へと促すことは特に重要だと言える。
聴くことの力
私の塾で「指導」と言うべき関わりは発生しない。
生徒・保護者の話を聴く。
表情をよく見て、声をかける。
求められたらアドバイスし、質問されたことには答える。
指示はしないし、導かないし、褒めない。
遅刻や忘れ物くらいのことで叱ったりしない。
これで生徒たちの学力が伸びているのは、聴くことの力なのだろう思っている。