今日のブルース⑫ロバート・ジョンソン「むなしき愛」(1937年)
むなしき愛
彼女を追って駅まで
スーツケースを手に
彼女を追って駅まで
スーツケースを手に
うまく言えない うまく言えない
どうしようもなく愛がむなしいとき
どうしようもなく愛はむなしい
音を立てて列車が駅に入ってくる
彼女の目をまっすぐ見た
音を立てて列車が入ってきて
彼女の目をまっすぐ見た
ひとりぼっちで さみしくて 泣かずにはいられなかった
どうしょうもなく愛はむなしい
列車が駅をあとにして
残された二つの灯り
列車が駅をあとにして
残された二つの灯り
青い灯りはオレのブルース 赤い灯りはオレの心
どうしようもなく愛はむなしい
拝啓、ろばじょん殿
ロバート・ジョンソン。満を持して、ここで「ろばじょん」と呼ばせてもらおう。嵐寛壽郎を「あらかん」、木村拓哉を「きむたく」、ジミ・ヘンドリックスを「じみへん」と呼び、「げんぱつ」事故の後遺症を引きずるこの国では、きみの通称は「ろばじょん」であるべきだ。それでこそ、きみに対する愛と友情とリスペクトが示せるというものである。なあ、ろばじょん。言葉が空疎だとか、気取ってるとか、悪口と受け取られても仕方のないようなことをさんざん書いてきた。それから、これはまだ書いていないけど、剽窃王であるとかも思っている。まあまあ、そう怒るなよ。著作権なんて概念があいまいな戦前のブルースの世界で、きみが剽窃王だというにはそれなりの理由がある。まあ、それはさておき、どれもこれも、いい意味で、リスペクトを込めて言ってるんだぜ。まあ、「いいい」みでって、「い」が三つも続くマジカルワードの化けの皮がそろそろこの国でも剥がされつつあるくらいだから、きみからしたら「はア?それで?」みたいな感じかもしれんけどさ、ぼくのリスペクトの気持ちは本当さ。忌野清志郎がオーティス・レディングを尊敬しているくらい明らかなことさ。
きみは映画を見たことがあったのかな。ミシシッピ州ルイヴィルの劇場主が観客へのサービスに映画の合間に流すために撮らせた「ホームタウン・ムービー」(黒人向け)のなかに、きみによく似た黒人青年がすごい速さでギターを弾く姿が映っているというのが、話題になっているらしいぜ。まったく、騒ぐんなら、生きているうちにしてほしいよな。どうなんだ?これはきみかい?え?信じるも?信じないも?あなた次第ですって、どこで覚えてきた、そんなセリフ。まあ、このフィルム自体は年代からしても、どうも他人の空似のようだけど、レコ―ディングで小銭を手にした後とかに、別嬪さんをつれてきみが話題の活動写真を見に行ったなんてことは、想像に難くないね。きみのことだから、その金を生活の足しにしようなんてことは考えもしなかったんじゃないかな。図星だろ。
映画のようなブルース
どうしてこんな眉唾物のフィルムまで持ち出して、映画の話をするかというとさ、きみの書く歌詞がまるで一編の短編映画みたいに感じられることがあるからさ。それは他のブルースマンにはあまり見られないことだ。どういうことなのか、映画評論家じゃないからうまく言えないけど、淀川長治さんもきっとそういうと思うんだ。これは映画だってね。画像に物を語らせている。それは言葉には解消できないもので、きみの歌詞を分析するにはどんなショットの積み重ねでできているか、どんなシークエンスがどんなアングルで、どれだけ続くかというように見た方がよくわかるような気がするよ。(いや、わかるよ、分析するなっていうんだろう。でも、そういう卓袱台ひっくり返しは拒否します。べー)
この歌も、彼女を追いかけていくシークエンス、列車が入って来るシークエンス、列車が出ていくシークエンスと三つのシークエンスからできている。最初のシークエンスのカメラはたぶん、女性を追って、大急ぎで駅へ向かうきみの目線だ。急ぐあまりカメラは激しくぶれている。ときどき、地面や空まで映り込むほどさ。この時点では、まだ、きみは愛のむなしさに気づいていない。ブルースの結句はこれから起こることの予告だ。画面には何らかの形で、それが反映されるだろう。微妙な色の変化とか、影とかでね。で、その結句だが、同じことをくり返しているようで、ちょっと違う。前半の主語はリスナー、もしくは一般の人を表すyou、後半はIだ。だから、「みなさん、愛はむなしいですよね、ぼくのときもむなしかったんです」となる。
2番目のシークエンスは、駅に入ってくる列車のロング・ショットから始まり、これから列車に乗ろうとしている相手の女性が振り返る姿(横か、あるいはもっと高いところから)、そして、一瞬インサートされた、ろばじょん、きみの「ぼくきちゃったよ」という無邪気な笑顔が曇りかけたところで、女性の正面からのショット。ただし、カメラはやや下向きで,目は映さない。とにかく、きみはわかってしまったんだ。ついていってはいけないということが。ああ、むなしき愛。
青い灯りと赤い灯り
最後のシークエンスは、きみは駅のホームにスーツケースを置いてその上にすわっている。遠景に彼女を連れて去っていく列車。赤い灯りとか青い灯りとかいうのにあまり意味はない。たまたま、その場にあった作業用のライトか街の灯りに思いを込めただけなんだろう?それくらい、そのときのきみはこの気持ちをどこかにのっけて、あずけないではいられなかった。このメタファーを空疎だって、別のところで書いたけど、空疎だからこそ、重いんだ。そして、二つの灯りを持ち出したんだから、自分と彼女二人を表すのが自然だと思う。きみも最初はそうしようとしたんじゃないかな。ストーンズが聞き間違えてそうしたようにね(1969年、『レット・イット・ブリード』収録のカバーで、ミック・ジャガーは「青い灯りはオレのベイビー」”The blue light was my baby"と歌っている。翌年発表されたライブ盤「ゲット・ヤ・ヤズ・アウト』ではオリジナル通りの歌詞に修正)。例えば、「赤い灯りはぼくの愛しい人」(”the red light was my heart”)と歌おうとした。でも、きみは気づいてしまった。去っていった彼女にとって、自分はもう何モノでもない。その証拠に、赤い灯りも青い灯りもそろって駅に残されているじゃないか。これはどちらもオレだ。だから、"heart"を、ちょっとニュアンスは違うが「心」という意味があって、「愛しい人」という意味はない"mind"に置き換えたのじゃないかな。そうじゃないと、脳の理知的な作用を表す"mind"って言葉は、あんまり恋愛には使われないような気がするんだ。
そして、しばらくすると、きみは立ち上がって、『サーカス』(1928年)のラストシーンのチャップリンみたいに、ゴミクズと化した列車のチケットかなんかを丸めて蹴飛ばして、またブルース・マンとして次の街に旅立つのさ。ああ、むなしき愛。
ところで、ろばじょん。彼女と行こうとしていた時、大事なギターはどうするつもりだったのさ?ろばじょん?寝たふりかい?(笑)
Love in Vain Blues
追記 映画っぽさとは?
映画っぽさというのは何なのかというと、結局、視点の移動ということにつきると思う。映画で言えば、カメラの位置だ。大概のブルースはパーソナルな表現なので、視点の移動は最小限に抑えられている。ろばじょんの「むなしき愛」では、列車が視点と場面の転換において、重要な役割を果たしている。例えば、「むなしき愛」を次のように書き換えたらどうだろう?
彼女を追って駅まで行った スーツケース片手に
ああ、愛はむなしきもの むなしきかな、愛
音を立てて入ってきた列車に 彼女は乗ろうとしていた
彼女の目をまっすぐに見た むなしきかな 愛
列車は行ってしまった 彼女をのせて
残された青い灯りはオレのブルース 赤い灯りはオレの心
むなしきかな 愛
まあ、これでも、ブルースとしては成り立つが、視点の移動がないので、ろばじょんのような映画的な広がりはまったくない。ぼくの書きかえでは、列車の動きが二人の別れと結び付けられているために、視点の移動が起きないのに対し、ろばじょんのオリジナルでは単に同時に起こっている別の出来事として描かれているために、視点の移動が起こる。念のため言っておくと、視点が移動しないブルースがダメと言っているのではない。それはそれでその良さがある。
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