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liminal;marginal;eternal議論批判 "外野"という言葉について

ここで書きたいのは、みなさんご察しの通り先日の『283 Production LIVE Performance [liminal;marginal;eternal]』[odd;2]の演出について、そしてそれらに対する議論についてだ。

これについて「楽しみにしていた美琴Pが可哀想」「自ら体調不良をネタにするのは不謹慎」などのいろんな意見があがり、そしてそれらに対する反論が繰り広げられている。

ただ、私がここで述べたいのはそれら個別に対する事項ではく、このレスバトルの中で何度も見られた「外野」という表現についてのことだ。

外野は本当に”外野”なのか?

私がここまで見たところ、今回の議論で”外野”という言葉は「シャニマスに全く関わっていない、ただお気持ちをしたいだけの部外者」という文脈で使われ、また時には飛躍して「今回の騒動にケチをつけるオタク一般」という意味にも使われている。

ただ、ここでどうしても述べたいことがある。
その”外野”の中には、かつて”住人“だったやつもいると。

私が所属しているアイマスのコミュニティにおいて、ここ2年で起きたこと。
それは圧倒的にシャニマスのライブに行く人間が減ったことだ。
これはただ単に「ライブに行くモチベーションがなくなった」ということではなく、シャニマス自体に対する関心、モチベーションが消えていったということだ。この2年間であるものは学マスへ行き、あるものは虹ヶ咲へ行き、そして蓮へと流れていった。

もちろん、シンプルに興味がなくなったという人間もいる。しかし、「アイドルは好きだけど、公式やっていることがキショい」「もう運営についていけない」という理由で他界したオタクだって少なくない。

そうしてそんなバックグラウンドを持った彼らは、今回の件でも意見を述べていた。
「なんでまたそんな面倒くさいことをして、余計な敵を作るんだ」と
私は、彼らの意見は間違いなく一個の”愛”だったと思う。変わり果てた故郷を嘆く声だった。本来だったら、この土地、コンテンツに残って、アイドルの輝きに満ちた日々を送りたかったはずだ。しかし、それが泣く泣く叶わなかった人間の、悲痛な愛ゆえの叫びをたくさん聴いた。
そんな彼らの意見さえも”外野”とラベリングされ、聞き入れる必要がない批判として扱われることが、僕はどうしても許せなかった。

確かに、今のシャニマスのあり方を楽しんでいる人間にとって、彼らの声はノイズにしか聞こえないだろう。もしも私もその立場だったらそれこそ強い言葉を使って、彼らを”外野”とラベリングして、取るに足らない存在として扱っていたと思う。

しかし、そうやって本来ならば外野ではなく”住人“だった人間の意見を「今はもうここにいないから」と言って外野とみなして切り捨ていく先に待つ未来は、かなり危険だと思う。
「去る者追わず」「中途半端な薬なら毒であれ」「嫌なら出ていけ」
確かに、全部正しい理屈だ。
だけれど、ついて行けない人間を切り捨て、残った人間がより強い結束と信条を持つ。強い言葉を使って言えば、そんな「カルト宗教」のようなコンテンツにシャニマスが成り下がる姿は、本当に僕たちが見たかったものなのだろうか?

僕たちが見たかったもの。それはアイドルの純粋な輝きが世界の人間に行き渡り、みんなが笑顔を共有できる世界なのではなかったのか。
少なくとも、僕はそう思っている。そしてそんな理想を掲げているからこそ、今のシャニマスには意義を申し立てざるを得ない。

長々と駄文を書き連ねた。つまり何が言いたいか。
それは、「どうか、外野の意見が全て悪意に満ちた批判の文句ではなく、かつてそこにいた人の悲痛な叫びでもあるということを知ってほしい」ということだ。

端的に述べれば2行で終わる、ただ個人的な”お気持ち”である。