パステルカラー パスカラカラーの音を“味わおう“
これは20世紀に活躍したロラン・バルトという思想家の著作「表徴の帝国」の一説である。めちゃくちゃかっこいいタイトルとやや難しめな冒頭文からするに、いかにもこれが難解な哲学書かのように思われるかもしれない。しかし、この「表徴の帝国」という本の内容は、ざっくばらんに言えばフランス生まれの彼による“日本旅行記“である。彼はこの本の中で皇居が持ちうる特殊性に感動したり、天ぷらをめちゃくちゃうまそうに食ってたり、道案内をしてもらう時に書いてもらった地図にまで目を輝かせている。
私たちはなぜ外国に憧れるのか?それはきっとその場所の全てー建物、食事、言語ーが私たちが生きる現実との差違、すなわち“目新しいもの“に満ちているからであろう。
そして彼が言うには、言葉の差違、目新しさ、そしてそれがもたらす理解のしがたさこそが最も至福であるという。
パステルカラー・パスカラカラーの音
このように、パステルカラー・パスカラカラーの歌詞は目新しいカタカナ語に満ちている。そして私たちのほとんどはこれらの言葉の意味を聴いてすぐに理解することは難しい。歌詞を見てもアルファベットではなくカタカナ語なので、翻訳機に入れても一発では出てこない。もしかしたら、ずっと分からないままかもしれいない。
私も含めて昔からオタクコンテンツにおいて(主語がでかいよ〜)は「知っていること」そして「詳しいこと」がメインステイタスの一つだ。もはや「知らない」でいることをさらけ出すのは御法度かもしれない。
しかし敢えて言おう。
その「知らない」ということ。それがこの曲においては素晴らしいのである。
ではなぜ素晴らしいのだろうか?それこそが前文で引用した『表徴の帝国』の序盤である。
私たちは言葉の意味に対して無知である時、その言葉の"音"だけを味わうことができるのだ。
この曲を聴く時、アルストロメリアがこの歌を歌う時、私たちはまるで異国の地の空港に降り立ったような感覚になる。
全てが差違、新しいものに満ちた空間。その中で聞こえる言語に対して無知であるからこそ味わえる、一つ一つの言葉が“意味“としてでなく、楽器が奏でるような“音“として聴こえること。
まさに『自分の知らない外国語(そして奇異なる国語)に通暁しながら、しかもそれを理解しないでいるということ』の感覚である。
言葉という差異に耳を澄ませて、軽やかで小気味のいい、ポップなメロディという風に乗った“音“を味わうこと。常に意味を指向する言葉に対して、その音だけに耳を澄ませること。
それがパステルカラー・パスカラカラーの至福である。
(ちなみに)
“知らないことがいい“と言っても、知りたくなるのが私たちの性であろう。
そんな僕たちのために、すでにこれらのカタカナ語の文章、そして単語の意味については有志がすでに考察している記事が存在している。
とても興味深い解釈しているので、興味のある方はぜひご覧あれ