幸せの核に近づくための自分メモ #9
◆ こないだ #HIPHOPで学ぶ英語 撮影時にYOU-KIDと話していたら、その日の夜にウェッサイのイベントでMCをするとのことだった。そのイベント、撮影前にストーリーを見てて知ったんだけれども、MoNa a.k.a Sad Girlさんが出演予定で、しかも今年いっぱいでしばらく活動休止だとかなんとか。彼女の音楽や活動を全部追ってきたわけではないけれども、このEPはよく聴いた。
その中でも収録楽曲「Laugh Now Cry Later」は、メキシコの死者の日を舞台にしたビデオが素敵で、曲自体もお気に入り。翌朝早くに起きて仕某しなければ…と思ってイベントは断念したんだけれども、結局翌日は昼まで寝てたので、普通にイベントに行けばよかった。なんとも俺らしい。
◆ ケンドリック・ラマーは「United In Grief」で“Everybody grieves different”と言った。自分のメンタルが最悪だった時期(2020年)のことを、今なら少しは相対化して話せるが、俺のgrieveの仕方は「とにかく部屋が汚くなる」、あと「シャワーを浴びない」だった(コロナ禍1年目で人と会うこともほとんど無かったので)。いわゆるセルフ・ネグレクトというやつ。今でも仕某は在宅某務が中心なので、人にあまり会わないのは変わらないけれども、週2回ジムに行くのでその前には必然的にシャワーを浴びる。いや、まぁ、ジムに行かない日もシャワーは浴びるんだけれども。鶏と卵じゃないけれども、どこにも行かない→なのでシャワーを浴びない→体が綺麗さっぱりじゃないのでどこにも行かない→…みたいなループは確実にあった。フィジカルな体調がよほど悪くないかぎり、身体を起こして外に出るの、大事。
◆ なんでいきなりこんなことを書いたかというと、前述のMoNaさんの「Laugh Now Cry Later」に「部屋の中はめちゃくちゃ」という歌詞があるのを思い出したから。タイトルの言葉はギャングの世界とかで「今は笑うがいい、明日泣くことになる」みたいな文脈で使われるんだけれども、MoNaさんの同曲では、人に弱みを見せることのできない不器用な自分が笑顔を取り繕い、のちに泣くさまが描写されている(と解釈している)。当時は気づかなかったけれども、同じく人に頼ることが苦手な自分としてはすごく理解できる状況だ。いわば、ペインボディに向き合うでも、それを発露させるでもなく、それを押し殺してしまっている状態。
◆ MoNaさんの何が凄いって、俺なんかが言うのもおこがましいんだけれども、チカーノのカルチャーに一貫した愛とリスペクトを持って、自分の表現にそれを反映し続けている点。「Laugh Now Cry Later」の歌詞から察するに、かなり内向的・内省的な面もある人なんだろうに、externalなものと自分とを結びつけ続けているのが凄い。俺も今まで33年間生きてきて、好きなものはいろいろあるけれども、自分をそのどれとidentifyしてもなんか違う気がして、というかめんどくさくて、最近は半ば意図的にそうすることを避けている。格闘技が好きで、運動するならその中心は格闘技でなければと昔は思っていたけれども、今はキックボクシングのジムに行かずゴールドジムに通っている。ヒップホップやR&Bなどの音楽は好きだけれども、新譜を毎週チェックすることは今年3月くらいからほとんどやっていない。肩書きや即物的なもの、externalなものに自分を説明させることをやめて、今はかつてないほど身軽に感じている。
でも、はたしてそれは幸せの必要条件なんだろうか?とも思う。だって、一歩外に出れば、自分を「どういう人か」でなく「何をやっている人か」で説明する(させられる)機会に溢れている。先日「この人ね、YOU-KIDと一緒にYouTubeで歌詞の和訳とかやってるんだよ」と他己紹介された時、それを痛切に感じた。自分自身を誰かに対して説明するとき、スムーズに「俺はこれが好き!」「これに命懸けてる!」と言えたらどんなに楽か。あるいは、内的・形而上学的な世界に重きを置く人々としか接しないか。でも、そんなのはどだい無理なわけで。
◆ 関係ないけど、最初の写真はゴールドジム渋谷東京のプール。トレ後はプロテインを飲みながらここでチル。そして今日も「だけれども」が多くなってしまった。
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