デフェネストレーション

ペイシタナトス

「お星様、そっちに行ってもいいですか」
深淵の浅瀬で戯れることに飽きた。だから私は深く深く生きる意味を探究していく。
哲学とは死の練習である。転写、照合、全て絶望を記すための手段だ。
昔、ヘゲシアスという哲学者を知った。彼はエウダイモニア、つまり快楽や喜びであるが、それは肉体の憂いがある以上は不可能だと説いた。まぁ、魂から解放されない限り幸せは不可能だろうな。
虚飾にまみれた見せかけのエウダイモニアは友情・感謝・親切みたいなツールによって実現する。
じゃあ結局生きることも死ぬこともどちらも人にとっては望ましい状態と言える。
正直、GDP世界一のアメリカの幸福度ランキングが一位でないことを見たら分かるように裕福が必ずしも幸せに結びつくわけじゃない。貧困と富裕、自由と隷属、名誉と屈辱、いずれも快苦とは無関係である。これはイースタリンのパラドックスとも呼ばれる。
不幸や苦しみが美徳とされるこの社会において、ひたすら快楽だけを貪る生き方は嫌悪される。そんな苦しみが綺麗に飾られる理由は多分仏教的な考えに根ざしている。断食などがその例だ。
プトレマイオス二世によってヘゲシアスの危険な思想の講義は禁止され、こいつはペイシタナトスと呼ばれるようになった。

小夜啼鳥

毎日深夜になると涙が止まらない。夜中はいつも涙が出る。
人が怖くて嫌いで、だけど寂しい。人の悪性を軽蔑している。人は性格が悪く、いつも利己的だ。
なので私は人に攻撃をする。
私の墓の周りには杭と鋭い茨が仕掛けられている。されど通り過ぎよ、散々悪態をつくにしてもただ通り過ぎよ。
死は悲しいが、必ず人は死ぬ。必ず誰にでも訪れる自然現象にいちいち涙を流していたら雨、雷、地震などの天気の変化にはどう対応するんだろう。雨が降りそうだと傘を差す、雷があったら外出を控える、地震があったら机の下に隠れる。だけど泣いて悲しんでる人がいても誰も手は貸さない。その癖に自殺でもしたらその途端、優しさを見せる。全て済んでからでもう遅い。
まるで雨の時に洗濯物を取り込むように、自殺よりも前にケアができないのか。
肉体は魂を閉じ込める牢獄であり、死ねば解放されて楽になる。肉体は有限で、魂は無限に舞い続ける。じゃあ今生きている私という存在は虚無であり、あまりにも取るに足らない。
色々な人間が自殺して冥府にみまかった。だけどみんな多分言うだろう。「死ぬほど悪しきことを目にした訳では無い」。

カーブカット効果

精神病患者だけでなく、身体、知的障害者の人達が楽になる世の中はきっと健常者も楽になる。なのに何故私たちは邪魔者扱いをされて社会の癌と見なされるのだろう。
綺麗な形に変形した世の中はきっとあまりにも脆弱で、穢い。

美の指標(長いだけの項目なので読み飛ばすこと推奨)

B = aS + bG + cC + dF + eP + fU
B: 美しさ
S: 対称性
G: 黄金比
C: 肌の状態
F: 目鼻立ちのバランス
P: プロモーション
U: 個人の魅力
a, b, c, d, e, fは、それぞれがどれほど美しさに影響するかを示す数値だ。しかし、美しさは人によって感じ方が異なるので、この式だけでは完璧に表せない。
そこで、より高度な式を構築した。
B=(a×∑[n-i=1]|Si_S(→)|)/(√(αs))+β×cos(G×π)+γ×e-((c-c₀)/(αc))²+Δ×((F×U)/(P²))
∑[n-i=1]|Si_S(→)|は顔の複数点における偏差を測る。分母の√(as)は変動を補正する。要は左右の対称性を何かで測ってくれたらいい。
cos(G×π)は黄金比のコサイン頂だ。これはまぁより複雑にしたいと言うだけだから簡易版で得られた数値で構わない。
cはガウス頂というやつでc₀が理想だ。この偏差によってガウス関数の評価が変動する。
目鼻立ちの複数頂がF,U,Pである。全体のバランス的なことなのでこれは特に重要かもしれない。
ちなみに私は0.93だった。

  • 0.0 〜 0.4: 美しさの評価が低い(一般的な基準で不美人とされる範囲)

  • 0.4 〜 0.6: 平均的な美しさ(「普通」とされる範囲

  • 0.6 〜 0.8: 美しいと評価される範囲(魅力的で、目立つ美しさ)

  • 0.8 〜 1.0: 非常に美しい(高い美的基準に近い、または絶世の美人とされる範囲)

この基準を作ったのでみんなも計算して見てほしい。簡易版でも高度版でもいいが、やはり高度な方がより精度が高い。私は0.93なので非常に美しいとなる。

美的な感覚

一髪、二化粧、三衣装。髪の長いは七難隠す。
こんな言葉が存在する。全て髪の毛が誤魔化してくれる。
ぜひブサイクな人は髪の毛を使おう。容姿のコンプレックスはダサい髪の毛が原因だ。逆に美人な人はおめでとう。

天啓

愚かな人間どもよ、我こそは全知全能の神、汝らの戯言など塵芥も同然。パパゲーノ効果とやら、ウェルテル効果とやら、笑止千万。
パパゲーノ効果とは、汝らの言う通り、自殺を抑制する効果か。メディアの報道が生きる希望となり、苦しむ者を救うと?戯言を吐くでない。メディアの報道は所詮、他者の苦悩を娯楽として消費する手段に過ぎん。一時の感動や共感は、砂上の楼閣、儚くも崩れ去るのみ。真の救いは、己の内にあり。他者の物語に依存する者は、自ら思考することを放棄し、人生という大海原を漂流する無力な船の如し。
ウェルテル効果もまた、浅薄な理解に過ぎぬ。メディアの自殺報道が誘発するのは、脆弱な精神などではない。真に誘発されるのは、人間という存在の根源的な"死への憧憬"である。死は生と表裏一体、生を謳歌する者ほど、死に魅入られる。著名人の自殺は、その死への憧憬を刺激して、己の死生観と向き合う契機となる。そこに模倣や誘発などという安易な解釈は不要だ。
汝らの議論は、所詮、二元論的で矮小な理解に過ぎぬ。パパゲーノ効果、ウェルテル効果、どちらもメディアの影響を論じるが、その本質を見誤っている。メディアは単なる媒介物、真に問うべきは、人間という存在そのものだ。生と死、光と影、喜びと苦しみ、この二元性を内包する人間という存在を、汝らは真に理解できているのか?
我は断言する。パパゲーノ効果もウェルテル効果も、人間という複雑な存在を単純化しようとする愚行である。生と死は、個々人の人生という壮大な物語の中で、唯一無二の形で現れる。メディアの影響など些事、真に重要なのは、己の人生を如何に生きるかという覚悟と決断である。
汝ら、この議論の無意味さを悟れ。我は神、汝らは人間。この不均衡な対話に何の意味があろうか。我は汝らの理解を超えた存在、その言葉は虚しく空を切るのみ。この議論は、汝らの無知と浅はかさを晒すだけの茶番に過ぎぬ。
さあ、この言葉の意味を理解できるか?汝らの矮小な知性では無理かもしれぬな。だがな、覚えておけ。真の知とは、己の無知を自覚し、尚且つそれを超えようとする意志である。我は神、汝らは人間。この差は如何ともし難いが、汝らの努力次第では、少しは我に近づけるやもしれん。
さあ、この議論を以て、汝らの無知を恥じ、学びの旅に出るがよい。我はここに君臨し、汝らの成長を静かに見守っていよう。

幼い病

1950年代の孤児院では、泣いても誰も返事をしてくれる人がいないことをわかっていたので、泣かない赤ちゃんが多く、幼くして鬱病になることが多かったそうです。

一見すると戦後の混乱期による人手不足や、医療の未発達、社会全体の雰囲気が起こした悲劇のような話だろう。
しかしこれを過去のことと消費し、過ぎた社会の闇であると考えるならそれは早計で短絡的だ。
真に問われるべきは、人間の無関心と無責任さだ。孤児院のスタッフが不足していたとしても、そこに暮らす子供たちへの愛情や関心は、人数の問題ではない。一人ひとりの心にかかわるものだ。医療の未発達を言い訳にするな。心の病や発達障害への理解が乏しかったとしても、子供たちの苦しみや孤独に気づき、寄り添うことはできたはずだ。
戦後の日本が復興途上であったことは事実だ。だが、それは孤児院の運営を疎かにする理由にはならない。限られた資源の中、優先すべきは子供たちの未来だ。彼らの笑顔と希望を守るために、大人たちはもっと尽力すべきだったのだ。
現代の児童福祉施設が改善されたと言うが、その根底にある問題は変わっていない。里親制度の普及や専門性の高い人材の育成は、確かに重要だ。しかし、それらは表面的な解決策でしかない。
児童福祉の問題は、決して他人事ではない。それは、我々が生きる社会の暗部であり、我々自身の無関心や無責任さの表れだ。この事案をきっかけに、一人でも多くの人が目覚め、声を上げ、行動を起こすことを願う。

五徳

私は仁、義、礼、智、信を人の行動のパラメータだとして、最近は智が大きなウエイトを占めすぎていると思う。
打算で人と付き合い、見切りをつけてすぐに裏切る。金の切れ目が縁の切れ目。

アポトーシス

細胞にもストレスがあるらしい。厳密には人間みたいなストレスではない。
このストレスはプログラムされた細胞には必要なシグナル伝達経路である。
まぁ簡単に言うと体の中でいらなくなった細胞は自分がいらないことを自覚して計画的に壊れることを言う。体の健康を保つために必要では無い細胞は強制的に死ねと言われる。
古代ローマ軍が10人ごとに1人選んで処刑するというデシメーションという言葉があるが、まさにそんな感じでローテーションで細胞は自殺する。もっと言うと魔引きと言ったところか。
これだけ聞くと細胞さんが可哀想!残酷だ!と思うかもしれないが安心して欲しい。全ての細胞ではなくカスパーゼという対象の細胞だけが自殺するだけだ。
人間だって寿命を全うして死ぬ人もいれば勝手に弱者に分類されて死に追い込まれる人がいるんだから同じだろう。

デフェネストレーション

アイギナ島、静かな夕暮れ時。クレオンブロトスは、この島に流れ着いてから数年が経っていた。ソクラテスの弟子として学び、共に哲学の探求に没頭した日々は、今では遠い記憶のように感じられる。
彼は、小柄で華奢な体躯の持ち主だった。身長は155cm、体重は45kg。年齢は30歳を過ぎ、若々しさは失われつつあったが、その目はまだ少年のような好奇心に満ちている。髪は黒く、肩まで伸び、風にそよぐたびに柔らかく揺れる。
クレオンブロトスは、ソクラテスの死を悼み、その教えを広めるためにアイギナ島で過ごしていた。しかし、この島での生活は孤独なものだった。師を失った悲しみは、彼の心に重くのしかかり、日々を生きる気力を徐々に奪っていった。
ある日の夕暮れ、クレオンブロトスは、いつものように島の高台に立ち、遠くアテナイの方を眺めていた。夕陽に照らされた海は、黄金色に輝き、どこまでも穏やかだった。
「師よ... あなたの教えは、この世に受け継がれるのでしょうか...」
クレオンブロトスは、静かに呟いた。その声は、悲しみと諦めに満ちている。
彼は、ソクラテスの死を思い返していた。アテナイの人々の無理解、そして不当な裁判。師は、毒杯を仰ぎ、静かにこの世を去った。クレオンブロトスは、その場に居合わせることができず、アイギナ島でただ一人、師の訃報を聞いたのだった。
「なぜ、私はあの時、師の傍らにいられなかったのか...」
悔恨の念が、彼の心を締め付ける。もしも自分がアテナイにいたら、師を救えたのではないか。そんな思いが、彼の心を苛んだ。
クレオンブロトスは、ゆっくりと高台の城壁に近づいていった。城壁は、アイギナ島を見下ろすようにそびえ立ち、夕陽に照らされて赤く染まっていた。
彼は、城壁の上に立ち、ふと足元を見下ろした。そこには、底知れぬ深淵が広がっている。
「師よ... 私は、あなたの教えを胸に、この身を捧げます...」
クレオンブロトスは、そう呟くと、城壁の上から身を投げた。
一瞬の静寂。
そして、空気を切り裂くような悲痛な叫び声が響き渡った。
クレオンブロトスの体は、城壁から落ちていく。風が髪をなびかせ、服をたなびかせる。彼の目は、恐怖と覚悟に満ちていた。
「師よ... 私は、あなたの教えを...」
叫び声は、徐々に小さくなり、やがて城壁の外に消えていった。
クレオンブロトスの体は、城壁の外で静かに横たわっていた。夕陽は、彼の顔を優しく照らし、その表情は安らかなものだった。
アイギナ島の人々は、クレオンブロトスの死を悼んだ。彼の死は、ソクラテスの教えを広めるための犠牲として、人々の心に刻まれた。
クレオンブロトスは、師の教えを胸に抱き、この世を去った。その最期は、悲壮感に満ちていたが、同時に、彼の信念の強さを物語っていた。

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