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パリ五輪開会式の演出に関する一考察
パリオリンピックの開会式における一部演出が少なからず話題になっていると聞いた。
僕も見てみたが、最後の晩餐の机の上で、ひげを生やした女性っぽい恰好をした?全身青塗りの男性がパフォーマンスをしていた。その背後には、なんかキャラが濃そうな人たちがたくさんいて、お世辞にも見ていて気持ちの良いものではなかった。
世間では、これが正しいとか正しくないとか気持ち悪いとか気持ち悪くないとか、キリスト教への冒涜だとかどうだとか色々な論争が起こっているようだ。それはその人たちに任せるとして、僕が最も気になったのは実はそこではない。
僕が気になったのは、どこの誰がこれを企画して、大の大人がどうしてそれを最終案として通してしまったのかということだ。
というのも、およそ企業に勤めている人ならわかると思うが、大きなプロジェクトになればなるほど関係者は多くなる。関係者が多くなると、いろんな人があれこれ口出しするようになるわけだから、大体物事というものは丸っこいものに落ち着いていく。これは大体日本企業の悪口に使われがちな話なのだが、別にフランスのパリオリンピックの企画委員会だって構造は同じだろうと思われる。でも出てきたものはとんでもなくとがったものだったわけだ。
いったいなぜあれがフランスを世界にアピールする場として正しい演出だというロジックがついたのか、そしてなぜそれが通ったのか?
今回は、僕がビジネスの場で見てきたことや、他のシーンで見てきたことなどを紡ぎ合わせて、この背景を考察してみたい。
まず、当の企画者はこう発言している。
『フランスには創造や芸術の自由がある。我々には多くの権利があるのだと伝えたかった』
https://news.livedoor.com/article/detail/26880786/
少しだけ文脈を補完してみると、おそらく・・彼ら/彼女らの頭の中の構造はこうなっていると思われる。
・ フランスという国は創造や芸術の発信国であり、常に時代の先を行く先鋭的な表現をしてきた。今回のパリ五輪でもそれをアピりたかった。
・ 先鋭的な表現の一環として、最も伝統的で人々の頭の中に固定観念として眠っている風景の一つであろう、最後の晩餐のシーンをモチーフにして、今風に解釈して作り直してみた。(彼らは建前としてはこれは最後の晩餐じゃないと否定はしているが、流石にそれは無理がありすぎる。)
・ それを通して、先鋭的な表現だけでなく、多様性を重んじる新たな時代が到来しつつある・・的なことも伝えたかった
つまりこれは超かっこよい演出だと、少なくとも企画者は考えていたと思われる。
恐らくこれくらいのシンプルな思考回路だったのではないか。
この手の話がいろんなところに最近起こっているのは周知の事実だと思う。歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレ問題だとか、カルバンクラインの目が覚めるようなモデルの起用だとか、性自認が女性な生物学的男性がいろんなところで悪さしたり、僕たちの大好きなゲームの主人公がどんどん醜くなったり、ディズニー映画はなぜか黒人とかゲイとかが頻繁に出てくるようになったり
多分その延長線上の表現だと、先鋭的じゃないから、パリ五輪の開会式では、もっとそれを過激にした形の演出になったのではないだろうか。
さて、この話、いわゆるポリコレといわれるこの手の話は、いつまでたってもかみ合わない。ポリコレを主張するよく分からない(しかもどこにいるのかよく分からない)人間たちと、僕含むそんなにポリコレに思い入れがない人たちの間で永遠に解釈がかみ合わない。
もう少し考えてみると、こういった要因があるように思える。
・ 思想の先鋭性?に対する前提の置き方の違いがまず一つ目。ポリコレ推進派は彼らの思想が新しい思想だと考えているが、そうでないと考えている人も同時に多数いること。これは例えば、貴族制度がはびこっていた時代に人間はみな平等であるとか、天動説がはびこっていた時代に地球のほうが実は動いているんだとかそういった、当時としては先進的だが、今となっては当たり前の思想を想像してみるとわかりやすい。恐らくポリコレ推進派は彼らが主張することがそう言った類の論説だと信じているのだ。ところが、多くの一般人は未だに男は男だし、女は女だと思ってたりしていて、それは別に後1万年時代が進もうが変わらない真実だと考えている。この前提の違いが一つ。
・ 次に、出発点としての課題認識とアウトプットの差の大きさが二つ目。ポリコレ推進派の課題認識は実は非常に正しい。それは例えば、ゲイを差別してはいけないとかそういったものだ。この命題は別に問題はない。ただその命題から出てくる結論が、おそらく間違えている。それは例えば、会社の中で女性やゲイの登用数を増やさないといけないとか、性自認を認めて男性アスリートの女性アスリート天候を認めてあげないといけないとか、ゲームの主人公は美男美女はだめでぽっと出のレズの女性が前作の主人公を殴り殺さないといけないとか、そういったものだ。これに共通するのは、ノイジーマイノリティに圧倒的な権利を認めて、サイレントマジョリティに我慢を強いるという事だ。なぜサイレントマジョリティは我慢を強いられるかというと、出発点としている課題認識を持ち出される反論が困難だからだ。反論して、え?あなたはゲイを差別するんですか?とか言われると、たいていの人は黙ってしまう。課題の出発点とその解決方法の間の矛盾を正しく指摘するのはよほど言語能力が高くかつ根気がないと難しい
・ そして、これをもとに金儲けしようとしている奴がいるという事が三点目(二点目とも密接に関連する)。これはESGでも全く同じ構図だ。ESGは僕はヨーロッパが仕掛けた敗者復活戦にしか見えなくて、自分たちの製造業の衰退をカムバックすべく、競争する土俵そのものを変えに来ているようにしか見えない。そして、欧米人はそういったプレーが得意なのだ。これはビジネスで欧米人とやり取りしたことがある人ならわかるはずだ。ポリコレも同じで、例えばゲーム業界だとポリコレコンサルなるものがはびこっていて、法外な報酬を得ていたりする。で、ポリコレコンサルの採用を断るとメディアと結託してネガキャンをはられるみたいな事件も起こってたりもする。これじゃあまるで反社が昔やっていた手法そのものなきもする。
恐らくこの世界には、今の時代がまとっている旧来型の思想・画一的な思想を打破したいと考えている層が一定いるのだろう(たぶんそれが左派とかリベラルとか呼ばれる人たちだ)。ポリコレはこの層のある意味次のはやりものの土俵なのだと思われる。そして問題はSNSが発展してノイジーマジョリティの声が大きくなりすぎたことだ。これにより企業側も、表面上正しいことに対して配慮せざるを得なくなった。なぜなら前述した通り課題認識が正しいことに対するうち手に人は反論しづらいから(どれだけそのうち手が偽善だったとしても)。そこにこれを契機に金儲けしようだとか別のインセンティブを持つ人間が集まって、今のポリコレだとかESGのムーブメントを作っているのだろう。ただやはり、そういった人は少数派な気はする。少数派が人の100倍騒いで、多数派に見せかけているだけではないか。
パリ五輪の開会式に立ち返ると、ポリコレ推進派が企画側にいて、彼らは彼らの思想が次の世代にはスタンダードになると心の底から信じていて、それについていけていない一般人に新しい世界を見せてやるという高尚な理念の下、それを芸術の都パリ風に表現するとこうだ!的なノリで企画したのがあの出し物だったのだろう。周りも、多様性だとかそういったキーワードを持ち出されては、いや普通に気持ち悪いっすそれ・・とも言えず(言ったら差別してるとか、そういった課題に先祖返りした批判をされてしまうから)、普通にあの企画がとおっていったのではないか。
このあたりが、僕が想像するパリ五輪の顛末だったりする。
ちなみに個人的には今のポリコレは、10-20年後にはすたれていると予想する。僕たちの下の世代はポリコレとかそういったものをダサく感じるのではないか。どうも今のリベラルは、年は取っているくせに自分たちは時代の最先端を行っていると勘違いしている節があるように思える。これは先日の都知事選の蓮舫氏の選挙戦でも全く同じ構図だった。でも実際には老害化して、誰も求めてない形式要件をいろんなところに脅迫しながら押し付けているだけの存在な気もする。若い世代でもポリコレ信者はいるが、どの時代でもいる主体性がなく宗教にはまってしまうタイプの子がそのままポリコレ信者になってしまっているのではないか。
いつの時代も変な人たちはいるものだが、次の世代の若者たちはきっと僕たちの世代よりも賢いだろうから、正しく時代が進むことを祈るのみである。