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#6 五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係を深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!
画家とパトロン : 交錯する運命の分岐点前夜
前回のおさらいとなりますが、モネがアリスと親しくなったのは、オシュデ氏からシャトー・ロッテンブールの円形広間を装飾するための大画面絵画4点の注文を受けた1876年8月末からです。この制作には約4カ月かかったとされています。モネは多作な画家でしたが、当時1.5メートルを超える大作はほとんど制作しておらず、これだけの大画面にはかなりの時間を要したと考えられます。これほどの大作は、直近では1876年4月の第2回印象派展に出品された「ラ・ジャポネーズ」程度でした。
「ラ・ジャポネーズ」は、モネが妻カミーユに日本の着物を着せて描いたジャポニスムの作品で、日本人にはなじみ深い絵画です。
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五郎さんはよく、画家が奥さんにコスプレさせて絵のモデルとして描くときは、画家が奥さんにラブラブな証拠だとおっしゃっています。確かにこの愛らしいカミーユの笑顔を見ていると、五郎さん説には説得力があります。でも、そんなにカミーユにラブラブだったモネが、その数カ月後に後妻となるオシュデ夫人と出会ってしまったと思うと、なんだか皮肉な気もします。
ところで、モネがアリスが親交を深めることになったシャトー・ロッテンブールでの大広間用装飾画の制作中、モネの妻カミーユはどこにいたのでしょうか? モネは完全に「単身赴任」状態だったのでしょうか?
このような疑問がふと湧いたのには理由があります。モネがモンジュロンに招待される前に、同じくシャトーに招待され、やはり何点かの作品を制作しているマネは、どうやら夫妻で招かれていたらしいからです。
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ただ、仮にモネもカミーユと一緒に招待されていたとしても、制作期間中の数カ月間ずっとカミーユが同行していたとは考えにくいでしょう。当時10歳だった長男ジャンは新学期が始まれば学校に通わなければなりません。したがって、カミーユは長男ジャンと共に、モネが住んでいたアルジャントゥイユの家で過ごしていたと考えるのが妥当でしょう。
事実、1876年11月上旬にモネがモンジュロンから蒐集家で医師のド・ベリオ氏宛に送った手紙の記述は、この仮説をある程度裏付けています。モネはこの手紙の中で、同氏に「アルジャントゥイユに一人で行って欲しい作品を選んでほしい」と勧めるとともに、『日傘を差す女』に興味を持っている婦人を説得して購入してもらうようお願いしています。そして、その売上は「金銭を残さずに置いてきた妻を喜ばせるだろう」と述べています。さらに、「妻に100フランほどの小額の前借りをお願いできないか」とも相談しています。
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つまり、モネがモンジュロンで装飾画を制作している間、妻カミーユは夫から十分な生活費を与えられないまま、アルジャントゥイユで息子と生活していたことになります。
ここで(個人的な趣味というより、五郎さんの興味にお答えしたいという熱意から🤭)、下世話な計算をしてみますが、アリスが第6子のジャン=ピエールを出産したのは1877年8月22日です。そうするとこの第6子は、1876年11月半ばに受精したと推定されます。そのため、モネが父親である可能性も否定はできません。ただし、それ以上何かを証明する資料はありません。
いずれにせよ、1876年後半から1877年にかけてカミーユの体調は急激に悪化していったようです。モネがカミーユの容体について悲痛な声を上げる手紙が数多く残されています。そのカミーユが第2子ミシェルを出産したのは1878年3月17日。この第2子は、1877年6月末頃に受精したと考えられます。カミーユは健康が優れない状態で妊娠し、妊娠後期にはさらに体調を崩していきました。モネが医師に助けを求める手紙を頻繁に送っていたことからも、その深刻さがうかがえます。
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「刺繍をするカミーユ」(1875年、バーンズ財団美術館)。
それにもかかわらず、モネ一家はカミーユの出産を2カ月後に控えた1878年1月中旬にアルジャントゥイユから引っ越しています。
一方、オシュデ氏は、アリスが第6子を出産したわずか4日後の1877年8月24日に破産宣告を受けています。6人の子供を抱えたオシュデ家にとって、出産は喜ばしいものの、経済的には厳しい状況でした。
このような経済的問題を抱える両家が、なぜか1878年9月に共同生活を始めることになるのです。この展開には驚くばかりです。
次回は、両家が一緒に住むに至る経済的背景を詳しく探っていきたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。