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#7 五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係を深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!
奇妙な台所事情 : 破産するパトロンに救われる画家
オシュデ氏が妻アリスの第6子出産に伴い出生届を出したのは、シャトーのあるモンジェロンではなく、ビアリッツの役所でした。当然、破産宣告もこの地で受けたことになります。1876年末にモネが装飾画制作を終えてシャトーを去ってからの8カ月間、オシュデ家はどこでどのように生活していたのでしょうか?
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オシュデ家の次女ブランシュによれば、モネがアリスやその子供たちと初めて出会ったのは、パリ8区のモンソー公園だったとされています。この作品には、娘ジェルメーヌと手をつないで歩くオシュデ夫人の後ろ姿が描かれています。なお、この作品は1897年、パリの美術商・林忠正を介してモネから購入され、日本にもたらされた最初期のモネ作品とされています。
実はオシュデ氏は、1876年8月に共同経営者たちと新会社を設立し、再起を図っているかのように振る舞っていましたが、実際にはすでに破産状態にありました。第2回目のコレクション売却は収益面では大成功を収め、売却益で商業債務を清算することができました。しかしビジネス界はこの売却を、オシュデ氏の破産状態が露呈した結果と冷淡に受け止めていました。つまり、1874年の第1回目のコレクション売却は危機の兆候、1875年4月に行われた第2回目の売却は財政破綻の証とみなされ、経営者としてのオシュデ氏の信用は完全に失墜していたのです。
オシュデ氏は、第1回目のコレクション売却後の1874年5月28日に、畏敬と憧憬の念を抱いていた父カジミールを亡くしました。一従業員から経営者にまで出世した努力家で有能な父親は、跡取りの一人息子にあらゆる教育やビジネスの修行を施していました。ただ、子育てというものは親の望む通りにはいかないものです。オシュデ氏は幼少期から高級品に囲まれ、何不自由ない生活を送っていたように見えましたが、日記や母親には常に不安を吐露していたようです。母親は息子の頻繁な美術品購入を諫めていましたが、それはおそらくオシュデ氏にとって、不安を鎮める手段だったのかもしれません。
いずれにせよ、オシュデ氏はシャトー・ロッテンブールで表向きには華やかな生活を続けていました。アリスが夫の不在に不満を漏らす一方で、オシュデ氏は追い詰められていたのです。ちなみにモネは装飾画の支払いを一部現物で受け取っています。おそらく在庫処分品と考えられており、オシュデ家の厳しい台所事情を物語っています。
時系列を追って見ていきましょう。オシュデ氏が破産宣告を受けたのは1877年8月24日ですが、破産処理は同年7月にすでに始まっていました。まず、パリのオスマン大通りにあった邸宅の家具が売却され、続いてモンジェロンでも同様の売却が行われています。1877年9月7日に作成された目録がこれを示しています。
つまり、1877年8月の時点でシャトーはすでに差押えに遭っていたと考えられます。しかしアリスの出産は待ってくれません。一家には住む家が必要であり、何よりも第6子の出生地が必要でした。こうしてオシュデ一家はアリスの妹の所有するビアリッツの「ヴィラ・マリー」に身を寄せました。一説には、アリスが妊娠の最終段階で急遽決まったビアリッツ行きの道中、列車内で出産したという家族の伝承すらあります。モネの子とも噂されるオシュデ家の第6子ジャン=ピエールは、こうした混乱の中、フランス西部の海辺の避暑地で誕生しました。
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本作はオシュデ夫妻が1877年に購入し、その後ジュルメーヌ自身が生涯手元に置いていました。
一方でモネ家ですが、1876年時点でモネからある程度まとまった数の作品を購入してくれる顧客は、ルーマニア出身のホメオパシー医師ジョルジュ・ド・ベリオ医師、オペラ歌手のジャン=バティスト・フォール、裕福な画家仲間のカイユボット程度だったと言われています。もちろん、そこに破産寸前のオシュデ氏も加わります。
普仏戦争中、「疎開先」であるロンドンで画商デュラン=リュエルと知り合ったモネは、彼に数十点単位で作品を購入してもらっていました。1872年には29点を9,800フラン、1873年には25点を1万2,100フランで買い取ってもらっています。しかし1874年以降、不況の影響や印象派へのコミットメントが原因で顧客を失ったデュラン=リュエルは、購入を大幅に減らし、数年間は完全に停止しました。このピンチが第1回印象派展開催のひとつの原動力となったことは、第3回の記事で述べた通りです。
そこでモネが新たに得た重要なクライアントのひとりがオシュデ氏でした。オシュデ氏は1874年、画商デュラン=リュエルの仲介で、モネから合計4,800フラン分の絵画を購入しています。この中には、『印象、日の出』(800フラン)や、1点あたり1,000フランで購入された4枚の作品が含まれていました。この年のモネの収入が1万554フランだったことを考えると、いかにオシュデ氏のパトロンとしての役割がモネにとって大切だったかがわかります。
オシュデ氏は値引きを求めず、他のコレクターよりも比較的高値で作品を購入していました。その結果、彼の帳簿は赤字になったとも言われています。
奇妙なことに、オシュデ氏が破産宣告を受けた1877年でさえ、モネは同氏から8,389フランという多額の支払いを受けています。さらに1877年12月から1878年1月にかけて、破産宣告後にもかかわらず、オシュデ氏はモネから10点以上の作品を購入していました。この年のモネの収入は1万5,917フラン50サンチームで、1873年以来の最高額でした。そのうち半分以上がオシュデ氏から支払われていたのです。
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この作品も、オシュデ氏が1877年にモネから購入した一作です。
オシュデ氏の破産は、1878年4月6日に控訴裁判所によって確定しました。債務総額は200万フランを超え、債権者は151人を数えました。債権者の中にはデュラン=リュエルやジョルジュ・プティといった画商から、ウォルトのような高級仕立て屋、アリスの実家であるレンゴ家一族、さらにはアリス自身も含まれていました。アリスは結婚契約に基づく個別財産の一部を「資産分割」で請求し、債権者間で分配される金額の一部を回収しようとしたのです。シャトーも翌1878年5月15日に売却されました。そしてそれから3週間後の6月5日と6日には、オシュデ氏の美術品や貴重品のコレクションが競売にかけられることになります。
次回はオシュデ氏の最後のコレクション売却の様子を詳しく見ていきます。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。