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『小鳥ことり、サクラヤマのぼれ』25
【緊急避難】
「ルリさん!」
ルリコがすぐ脇にいるのに、ヤベじいはそう叫んでサクラヤマを駆けおりていった。
「おじいちゃん!」ルリコが、そしてケンイチが急いで後を追いかける。
ヒワは、サエに抱きつかれたまま動きが取れず、幹の間から下をのぞいた。
ヤベじいはまず、倒れている智恵の手から血まみれの包丁を外し、思い切りミカン山の下方に放り投げた。
それから倒れ伏した目玉ババアの肩に手をやり、
「ルリさん、だいじょうぶか、おい、返事してくれ」
絶えず声をかけている。
「ねえじいちゃん、ルリ、ってその……」
ケンイチがおずおずと尋ねると、
「昔からの知り合いだ、ルリさんは」
そう言ってヤベじいは首にかけていたタオルをたたんでそっと彼女の背中に当て、ゆっくりと抱きあげた。
脇では、発砲した警官が呆然と立ち尽くしている。服はぼろぼろにつつかれ、あちこち血がにじんでいた。
カラスに襲われた連中は、ある者は頭から血を流し、ある者は全身白い糞まみれになって、道に座り込んでいたり、倒れ伏していたり、見る影もない。むしろ最初から倒れていた梅宮や智恵の方が無傷のままにみえた。
意識のある者でさえも、すでに、ヒワたちを襲う気が失せてしまったかのように呆けた表情をしている。
先ほどまで威勢のよかった桑原も、今はただ両手で顔をおおい、むせび泣いているばかりだ。
「どうしよう……」
ルリコがあたりを見回してつぶやいている。「どうしたら、いいんだろう」
「決まってるさ」
声を発したのはケンイチだった。
ヤベじいはまだ、茫洋とした姿で目玉ババアをかき抱いている。
ケンイチはまっすぐサクラヤマを見上げていた。
「ヒワ、ちょっと降りて来てくれない? サエちゃんはそこで待ってて。みんなで手分けして、コイツらをサクラヤマに運ぶんだ、まずヒワと、ルリコ、意識のある人を集めて、歩かせてくれ、いいな」
「あの、トモちゃんは」
下に降りて、智恵の脇にかがみこんで、ヒワはそっと脈を確かめる。
彼女はすっかり血の気が失せ、目の下にはっきり見えるほどの隈があったが、それでもかすかに脈が感じられた。
「ごめんなさい、あの……でも」ヒワの目に涙が盛り上がる。
「トモちゃん、でもこのままじゃ」
「もちろん、智恵さんも運ぶんだ、みんなね、サクラヤマに」
ケンイチの力強い声にヒワの目から更に涙がこぼれる。
「うん、ありがとう」
「パパ! 目を覚まして!」カオリは梅宮を揺さぶって何度も呼びかけている。
「どうしよう、頭から血が」
「頭をケガしてるから、揺さぶっちゃだめだ」
先に智恵を置いてきたケンイチが戻ってきて声をかける。
「梅宮さんも運ぼう、カオリン、足の方持ってくれる?」
カオリは涙を拭いて、父親の足の方に立った。
ケンイチは注意深く梅宮の肩口に腕を差し入れ、頭全体を抱え込むように持ち上げた。
血がさらりと落ち、ケンイチの手を赤く染める。カオリはそれを見るなり、真っ青になって父親の足を取り落としそうになった。
「がんばって」ヒワが声をかけると、カオリはぐっと唇を噛んで、また足を抱え直した。
「そうだ、ゆっくりね」
「サエちゃんもてつだうよ!」
サエがサクラヤマを駆けおりてきた。「ルリちゃんをかんびょうする!」
ルリコが顔をしかめた。
「何か紛らわしくってヤダなぁ」
うながされるまま、あるいはケンイチたちにかつがれてサクラヤマに入った自治会長はじめ襲撃者の面々は、その地に着くや否やすぐに眠りこんでしまった。
ヤベじいは、目玉ババアもといルリさんを抱きかかえるように、一番奥の暗がりにひっそり座っていた。時折、かがみこんで耳を澄ませ、それから短く「ああ」「そうなんだ」と小さな声で相槌を打っている。彼女が言っていることばはヒワの所には届いていなかったが、話ができるうちは大丈夫だろう、とサエちゃんを抱え直した。
空気は乾き、雨はまるで降りそうにもない。
しかし空には、たくさんの飛行機雲がだらしなく膨らんでいくつもの軌跡を残している。
そのうちに、日が傾いて、心なしか大きな雲が目立ち始めた頃、まず、体力的な優位なのか、元白鳥管轄の駐在という警官が目覚めた。
しばらくぼんやりとした目線であたりを眺め渡し、それから首を大きく傾げたまま、そのまま立ちつくしている。
制服ということもあって、より一層わびしさが滲んでいる。
日の最後の切れはしが、西の山にひっかかり、やがてきれいに宵闇に吸い込まれてしまうと、彼は急にそわそわと裾を直し始めた。
「どうした?」
ケンイチが棘のある声で問うと、「あのですね」どこか遠くを見たままだが、制服を手でひっぱったり直したりして外に出て行こうとする。
「まだ、仕事も残っておりますので、これで失礼します」
えらの張ったいかつい顔つきの割におどおどとした物言いには、昼前までの威勢はない。
梅宮を警棒で殴ったのも忘れているようだ。
そして拳銃を発砲してしまったのには、まだ気づいていないらしい。
すっかり毒気の抜けた様子で、それでは、と言いながらサクラヤマの外に出て行った。
彼が山道の視界から消えて間もなく今度は篠原教頭が目を開けた。彼は何度も目をつぶったり開けたりして、少しずつピントを調整している。ケンイチが
「ねえ……先生」
おずおずと呼びかけると、彼はお? と声を上げてから少し考え、おお、とうれしそうにふり返り、それから不思議そうに
「ケンイチ、こんなところで何してんだ?」
そう訊ねてきた。ケンイチが言葉に詰まったのもそれほど気にせず
「もう下校時間かな……あそこの交差点危ないからちょっと見て来る」
そう言って、案外軽い足取りでサクラヤマを降りていった。
ケンイチは思わず立ち上がり 何か叫ぼうと口を開いた。
だが、結局は教頭の背中を黙って見送った。
ヒワが寄り添うと、ケンイチは固く拳を握り、叫びそうになるのを一生懸命堪えているようだった。
「ケンちゃん……」
「仕方ないよ……あんだけ、子どもたちを」
それ以上のことばは出せずに、ケンイチは尚も彼の消えた先を見つめていた。
急に、左手滝の方角から、ひゅーーーっと打ち上げ花火の上がる音が響き、ヒワたちは思わず首をすくめた。子どもたちが落とされた時と同じ音だ、それから少ししてまた、同じ音が響いた。
「ちくしょう」
つぶやくケンイチの目からは、何の感情も読み取れなかった。
それから一時間もしないうちに、自治会関係の連中は次々と目を覚まし、誰もがみな、急に心細げな表情で、口の中で挨拶を濁しながら、おのおの道を下っていった。
しかし、必ずしばらく経ってから滝の方から打ち上げ花火の上る音が響き、それっきり、静かになる。
降りていった彼らの分だけ、ぞっとするような笛の音は響いて、やがてあたりは徐々に暗くなっていった。
梅宮は何度か小さくうめき声を上げたが、少し肩が動いたり、腕が動いたりするたびに、脇に座り込んだカオリが、しっかとその身体を押さえ込んで起き上がらないように見張っている。
「だめだよ、起きちゃ」
ヒワが最初にみた時のそっけない感じではなく、心底父親を気遣っている声だった。
「雨が止むまで、出ちゃいけないんだよ、パパ。もう少し我慢して」
ルリコが、持っていたリュックから白いタオルを一枚出して、カオリに渡す。
「これ、頭の傷に当ててやってください」
カオリは消えそうな声で「ありがと」と、タオルを受け取り、父親の頭の下に敷いてやった。幸いにもすでに血は止まっていたようだ。やがて梅宮はすうすうと静かな寝息をたてはじめた。表情も穏やかになっていた。
最後に自治会長の桑原が機械仕掛けよろしくぱちりと目を開けたのは、急に暗くなってきた空から、最初の一粒が落ちた時だった。
雨粒がまぶたに当たったようだ。
彼は、すぐ隣に横たわる智恵を不思議そうに眺め、しばらく首を傾げていたが、起きている連中に目を上げて、更に怪訝そうな目になった。
「ええと何か」桑原も、何も覚えていないようだ。「何か集会が、あったような……」
誰も答えられない。桑原は更にあたりを見回して、
「青木さんとか、確か一緒に……」
「もう帰りましたよ」
「梅宮さんも確か」
「梅宮さんは」
ケンイチの視線がゆっくり動いた先を同じように追って
「おやおや」
桑原は何の悪気もなくつぶやく。
「寝てしまったんだ、あんなに飲むからだよ……ああ、カオリちゃんが来てくれれば安心だな」
カオリはいっしゅん身を強張らせたが、父親の肩に手を置いて顔を上げずにいる。
「しかしすみません、私はお先に失礼しますよ」
ケンイチが答えないので、奥に座っていたヤベじいが代わって言った。
「そうですか、お気をつけて」
言いながらもヤベじいは、脇に横たわるルリの頭を静かに撫で、どこか遠くを見ている。
「でも、もう少しここにいた方がいいかと思いますが」
いぶかしげな桑原の視線を浴びて、ケンイチも、重い口を開く。
「……雨が止むまでは」
桑原は、濡れたまぶたに手を伸ばし、指先で吹きとった。
「いやしかし」
急に責任のある自治会長の物言いが戻る。
「やっぱり何か、やり残したことがあるような。すみませんがお先に帰らせていただきます」
ぽつり、と大きな雨粒がヒワのすぐ足もとの地面に落ちた。うす暗い中でも乾いた地面にその水滴はくっきりと丸い跡をのこす。
「あの」
たまらなくなって、ヒワが問いかける。
「……覚えてないんですか?」
桑原がゆっくりと振りかえった。ヒワの顔を見て、桜の幹に目を移し、ヤベじいの方に目をやった。どこまでも視線は平静だ。
「いや、何も」
ヒワはついかっとして、口を開く、非難したいことはたくさんあり過ぎた。と、そこへ
「ああ、そうだった」
桑原は急に快活な目になった。
「思い出しましたよ、滝に行くよう、言われていたんですわ」
「滝に」ヤベじいが無表情のまま繰り返す。
「はあ、飛び込むんですわ。では」
軽く頭を下げ、桑原はためらいのない様子でサクラヤマを降りて行く。
そんな彼のがっしりとした黒い背中を、ヒワたちはただ、黙って見送ることしかできなかった。
間もなく、長い笛の音がほの暗い山の中に響き渡り、最後にすすり泣くような音とともに消えていった。
サクラヤマに残されたのは、結局ヒワとケンイチ、ルリコ、小さなサエ、途方に暮れた顔のカオリ、ヤベじい、そして意識のない智恵と梅宮、ヤベじいの脇で横たわるルリだけとなった。
ぽつり、ぽつり、
最初は気づかないくらいに、そのうちに勢いを増し、雨粒はだんだんと数を増す。
ヤベじいは急に身を起こし、ルリの小さな身体を抱き上げてさらに奥の、少しだけ高くなった場所にその身を横たえてやった。ケンイチはすぐに気づいて、ヒワを呼んだ。
「智恵さんと、梅宮さんを、少しでも濡れない場所に移動させよう、足を持ってくれるか?」
「どこに」
それには、今までぼおっとしていたヤベじいが答えた。
「ルリさんに寄りかかるように、寝かせようか。あそこなら雨も当たりにくいしな」
「えっ、でも」言いかけてヒワは、はっ、と息をのむ。
「うん、ルリさん、さっき逝ってしまったよ」
ヤベじいは、急にいつもの調子に戻っていた。あたかも、天気の話でもしているようだった。
「笑って言ってたよ、カラスに乗ったのは初めてだ、どいつもこいつもワシに乗れってうるさすぎて、と。あんなまじないは二度とごめんだ、とさ」