『小鳥ことり、サクラヤマのぼれ』23
【籠城戦】
―― とんとんとんとんとん
懐かしい響きだった。
ずっと昔、まだ幼稚園の頃だったろうか。
ヒワは、かすかに目を開ける。
いや、まだ目をつぶっていよう。幸せでいたいから。
この響きは、軽トラックの、荷台だ。
おじいちゃんはいつも、ヒワと圭吾と、従兄姉たちを載せて、ミカン山まで連れて行ってくれた。
ほうら、今年は出来がいいぞ。見てごらん。まん丸な実を。
ヒヨも避けたし、ハクビシンも退治した。
ヒヨは網で避けられるが、ハクビシンはそうは行かん。
じゃあどうやるか、って?
ハクビシンはな、アンパンのまん中に毒を仕込んどくのさ。
やつら、ミカンよりかはアンパンの方が好きだからな。
それは、やっぱり、コロス、ってことなのかな。
ごとごと揺られながら、ヒワは全身のけだるさと闘う。
ねえおじいちゃん、もうコロスのはやめて。
キリがないから、ねえ。
誰かが叫んでいる。「断る」
すぐ頭の上で、聴き慣れない声がサクラヤマに向かっていた。
「オオタルさまがご所望だ、一体損ねたのだから、代わりに三体は欲しい」
「勝手なことをほざくな」サクラヤマの中からは、聴き慣れた声。
ケンイチだ! ヒワの意識は急にぱっと晴れる。
「俺とじいさんと、ここに入ったんだ、ふたりいればいいだろう、もう止めるんだ」
「駄目だ、オオタルさまのお告げだから」
「おまえら」
ヤベじいの声もする。どこかさびしげな響きだ。
「目を覚ませ、どうして分からんのだ」
「うるさい」
うっすら目を開けてみると、サエがヒワのすぐ頭のあたりに座っていた。ふたりの周りには数人分の足が見えた。サエも含め、誰もサクラヤマとのやりとりに夢中で、ヒワの意識が戻ったのに気づいていないようだ。
「アンタの可愛い孫娘は助けてやろうって言うのに、何をゴチャゴチャ言ってるんだ」
おい、コイツ目を覚ましたぞ。誰かに背中を軽く蹴られ、ヒワは息を止める。
「どっちでもいいから、早くコイツらをそこに運べ」
蹴った足を見上げてみると、制服姿の警官だった。
「なぜオマエらは」ヤベじいが更に対話を続けようとしている。
「なぜ石を持ち帰ってしまったんだ、あそこにわざわざ集めて隠したのは、オマエらにくれてやるためじゃ、なかったのに」
ヒワも気づいた。
ここに立っているのは、神社での新年会に集まった連中なのだ。
「ヤベさん、アンタがひとり占めするつもりだったんだろう?」
嘲りの声を発したのは、自治会長の桑原だ。
「あれはね、持ち帰って正しく祀れば、子子孫孫まで栄えるんだぞ、だからアンタは」
「違う」
ヤベじいの声は低かったが、それはヒワにもはっきりと聞き取れた。
「ケンイチに見張らせていたのも、自分が欲しかったわけではない。隠しておいただけだ。出来心で持ち帰る人間が出ないように……前にヒロシゲがやったみたいに」
急に自分の祖父の名が出て、ヒワはつい起き上がりそうになる。と、ふと頭の先に黒い影を認め、そっとそちらを伺った。
カラスがいた。
羽が少し曲がっている。
「……カーコ」
サエも気づいて、声をあげようとしたのをヒワは目で止め、カラスを見た。
声に出るか出ないかくらいで、ヒワはカラスに問いかける。
「目玉ババアは、大丈夫?」
『それョか』
カラスがそうしゃべった。確かに。
そしてそれは、ヒワとサエ以外近くにいる誰も気づいていないようだ。カラスは続けた。
『いまがオオゴト、サクラヤマのボれ』
カラスが飛び立つと同時に、ヒワは跳ねるように起き上がった。
「待ってください、ワタシ……」
体が震えている。昨夜の恐怖はすっかり身体の芯まで沁みついているようだ、しかし、今は、
―― 信じるしかない。
「ワタシたち、自分で上ります」
「ああ、私も」
草かげから加わった声に、立っていた連中はぎょっとしたようにふり向く。
「ルリちゃん!」
「ルリコ!」ケンイチも叫んでいる。「何でオマエまで来たんだよ!」
自宅で見張られていたはずのルリコが、涼しい顔で立っていた。
「ひとりくらい増えてもいいんでしょ? 行こう、ヒワちゃん、サエちゃん」
そう、先に立って歩き出した。
「ちょ、」待って、とヒワはルリコの腕をつかむ。「本気?」
「そうだけど」
「また昨夜みたいなことになるかもなんだよ、どうしてわざわざここに」
「ツヨシに帽子返さないとだし」
そう言ってまた前を見る、そのせつなヒワだけに聴こえる声でつけ足した。
「今夜の降水確率、七十パーだって」
「えっ、今何て」
「籠城戦にはもってこいじゃん?」
すぐさま、ヒワにはカラスの命じた意味が分かった。
難を逃れるには、あの中にとどまるしかないのだ……雨が止むまで。
「サエちゃん、行こう」
サエは素直を手を差し伸べてきた。
「現場検証を先にやるから、ってパトカーに乗せられて、神社に行くかと思ったらこっちだった」
奴らに脅されたんだ、とケンイチが吐き捨てた。
「ここに入らなければ、ルリコを殺すと言いやがった」
「でも、結局来ちゃったけどね」
ルリコは涼しい顔をしている。
「カラスがめっちゃ飛んできてさ、急にパトカーを襲ってね、警察がドタバタしてるスキにチャリで逃げたんだ」
「そんでまたここかよ」
ケンイチはどこか呆れている。「オレっち、オマエを盾に取られたからここに来たのにさ」
「でもね」ヒワは桜の間から、こちらを見上げている連中をうかがう。
自治会長、梅宮ツクネジマ町内会長、西取、東取の会長もいる。もうふたりほど、顔は知らなかったが多分自治役員らしき人物、管轄地区の巡査長らしき案外若そうな警官、総勢七名がずらりと控えていた。
「コトある時にはサクラヤマ上れ、って……今がまさにオオゴトじゃない?」
「しかし、結局打つ手がないなぁ」
ヤベじいは腕組みをしたままだった。
「ねえ」
ルリコが急に目線を上げる。耳をそばだてているようだ。
つられてみな、顔を上げた。
下の連中の間に、何か騒ぎが起こっているようだ。
「約束が違うじゃないか!」
はっきりとこう、怒鳴っているのが耳に飛び込む。
ほぼ同時に
「離して!」女の子の声が叫んでいる。「手を離して!」
幹と幹との間から下をのぞくと、篠原教頭らしき男がその子の腕を引っ張っていた。少女は両手首をテープか何かで縛られているらしく、片腕をひっぱられ、引きずられるようにサクラヤマの方へ連れて来られていた。
なぜか梅宮が自治会長につかみかからんばかりに迫っていた。
「あれって……」ヒワも見おぼえがあった。
「梅宮会長のうちの」
あいさつに行った時、ちょうどあの家に帰ってきた少女のようだ。
「カオリだ」ケンイチも呆然としている。「なんでアイツが」
カオリはおかっぱの頭をぶんぶんと振り回し、手を振りほどこうとしている。
「やめてよ! 何であんな所に行かなきゃならないの!」
「メールを受け取ったんだろう? 昨日の夕方」
篠原が言ったひとことに、聞いていたヒワたちはぎょっとして身をこわばらせた。
自分たち以外にも、まだ呪いを受け取った子どもがいたのだ。
「サクラヤマのぼれ、と言われたんだろう? オオタルさまに」
「イタズラに決まってるでしょ! 離して」
カオリもどこかで聞いたことがあったのだろう。
「それに、パパにも今朝話したよ! そしたらうちは関係ない、だいじょうぶだ、って」
「そうだ!」
梅宮は口から泡を吹かんばかりだった。
「桑原さん、アンタ前に言ったよな? 役付きになれば、呪いは避けられる、って。だからオレはクソ忙しいのに町内会長も受けたんだ、それに今朝だって、何かの間違いかと思ってアンタにだけ、打ち明けたんだ、その時アンタ言ったよな? カオリは行かなくて大丈夫だ、って。それを今更なぜここに」
「正直に言えば、アンタは娘をどこかに隠すだろう?」
「な……」梅宮がよろめいた。
「まあ、オオタルさまの呪いはねえ」
顔色を失っている梅宮とは裏腹に、桑原は涼しい顔をしている。
「私らにはどうにもならない。オオタルさまがそう言うのならば、カオリちゃんだってあそこに入ってもらわねば。いくら町内会長の娘さんだからと言っても」
「この」あとはことばにならない吼え声とともに、梅宮が桑原に襲いかかる。
だが、背後から制服の警官ともうひとりが、梅宮を取り押さえた。
警官は、慣れた手つきで警棒を彼の後頭部に振り上げ、スナップをきかせて殴りつけた。
カオリが悲鳴を上げる。警官はさらに、倒れ伏した梅宮を殴り続ける。
「止めて! パパを殴らないで!」
「やめろ」
桑原が静かに制し、警官が急に手を止めた。
梅宮は低く呻いているが、すでに起き上がる気力もないようだった。
カオリを引っ張る手を止め、篠原がやさしく告げる。
「カオリちゃん、カオリちゃんがおとなしくサクラヤマに上れば、パパはもう殴られなくて済むからね」
カオリはうつむいたきり顔を上げようともせず、サクラヤマの入口に向かって歩を進めた。
ヒワがサクラヤマの入口で出迎えた時、カオリはしゃくり上げて泣いていた。
「パパが、死んじゃうかも」
「カオリ、もっと中に入って、とりあえず座りなよ」
声に気づき、カオリは呆然とした表情であたりを見回す。
「ヤベじい……」急にがばっとヤベじいにすがりつく。
「携帯あったら貸してください! 救急車に連絡するから、それと警察」
「すまん」ヤベじいが頭をかく。昨日ケガしたばかりの頭から、黒くなったかさぶたがばりばりと落ちる。風呂に入る暇も、治療する暇も無かったのだろう。
「オレは昨日落としちまって。まあ、持ってるヤツもいるが……」
「ここ、アンテナ立たないんだ」ルリコがスマートフォンを上げてみせる。
「それに、仮に救急車は呼べても、警察はね……」下にあごをしゃくる。
「もう、来てるけど逆にキケンだしね」
「さあ」
下から声がかかった。
「それじゃあ今度はみんなして出て来てもらおうか」
当然の口調で桑原がうながす。
「ケンイチくぅん」篠原教頭は節をつけて呼んでいる。「滝にいく、時間だよぉ」
「すぐ済むからね」西取の町内会長だとヤベじいが教えてくれた男も優しい言い方だ。
「全然、苦しくないように、さっさと済ませるから」
「さあみんな」
「出ておいで」
「やさしく言っているうちにね」
「ヤベさん」
桑原が呼びかけた。
「子どもたちの行方不明事件については、うまく言っておいてやるからね、アンタが誘拐の主犯らしくて、実は大量殺人鬼だった、ってね……」
雨。本当に降るのかな……ルリコは木々の合間から覗く青空を見上げ、少しだけ目を泳がせた。
「だいじょうぶだろう」
ヤベじいが指さした頭上に、いくつもの飛行機雲が見えた。
「あの雲がさ、どんどんと滲んで広がって行くだろう? 飛行機雲が次々と重なる時には雨が近い、それに下の煙の方向をみればね」
ここは辛抱強く、待つしかないだろう、ヤベじいの言い方はどこかさっぱりしていた。
しかし、ヒワは空を見上げて大きく溜息をつく。
雨が降って、止んで、サクラヤマに捕えられた連中はいったんは無事に外に出ていける。
しかし、豆腐石に呪われた連中はずっと、呪われたままなのだ。
彼らがその気になればまた、自分たちは捕まってしまうだろう。
堂々巡りだ。空気が暗く淀んでみえる。
と、急にケンイチが、目をぐるりと動かして手を差し出した。
「聴こえない?」
何を、とヒワが訊ねる前に、下からものすごい騒ぎが巻き起こった。
ヒワたちが覗いてみた時、ちょうど黒い雲が追手の上に覆いかぶさろうとしていた。