世の空気に抗う
1.「空気」とは何か
『空気の研究』(山本七平著)なる書籍がある。空気の組成は窒素が80%で酸素は…という話ではもちろんなく、「空気を読め!」の空気のことである。すなわち「空気」とは、絶対にそこからの逸脱が許されないある種の前提であり、その前提に従わない者に対しては強烈な同調圧力をもって服従を強要する何かである。日本社会では、周囲の「空気」を読み、その「空気」に従う人間になることが「大人になる」ことであるかのように言われることが多い。「空気の研究(文春文庫)」に解説文を寄稿している日下公人は、『昭和以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では“空気”はある種の“絶対権威”のように驚くべき力をふるっている。』と書いている。昭和から平成そして令和の時代に生きる私たちにとってもまた、この空気の支配から逃れることは極めて困難なことのように思われる。
このような「空気」の支配力が強大化している理由の一つとして、マスメディアの登場と発達があるだろう。新聞・ラジオ・テレビが、強力な空気発生装置として機能しており、その空気には政府も従わざるを得ない状況がしばしば現れる。戦前においては「鬼畜米英」の空気に同調しない者は「非国民」扱いされた。我が国が無謀な戦争へ突き進んでいった原因は、「軍部の暴走」ではなくむしろ「世論迎合=空気への服従」ではなかったか。戦後はそれとは真反対の空気が造成された。「国家は悪」「軍拡反対」などの空気が造成され、政治や行政もその空気の中にあって、正規の軍隊をもつことを禁じた憲法を改正できないまま時は流れてきた。山本七平氏は、『もし将来日本を破壊するものがあるとしたら、それは(当時の)30年前の破滅同様に、おそらく「空気」なのである。』とまで予言している。
2.「空気」の支配から自由になる為の理性と信仰
「空気」の支配を打破するための武器として何が有効だろうか。その答の一つは、「理性」を取り戻すことだろう。劇場の中で熱狂している状態から離れ、冷静に客観的事実に目を向け、論理的に自分の頭で考える習慣を一人一人がもつべきである。山本七平氏は、このような思考を「空気に水を差す」と表現している。疑似科学を根拠とする主張の虚構性を見破るためには正しい科学的知識も必要だろう。マスメディアは物事の一面だけをあえて強調して他の面を覆い隠す(=報道しない自由!)という偏向報道によって、巧みな「印象操作」を行い世論を誘導しようとするため、それを見抜くためのメディアリテラシーを身につける必要もあろう。近年、SNSなどの隆盛によって、既存マスメディアの偏向報道に気づく人が多くなっているのは良い傾向だと思う。
しかし、「理性」だけでは空気の支配を打ち破ることは困難なようだ。どんなに事実を積み重ねて論理的に議論を展開しても、最後は「空気」に沿った結論しか出てこないのが、あらゆる「会議」の実体であるように思われる。「そんなに理屈ばかり主張してもあなたのためにならないよ」などと囁かれて、自分の信じる正義を貫ける人はまれだろう。最後は個人の信念の強さが問われることになる。金も名誉も命もいらぬ、とまで言い切れる人でなければ、世の空気に抗うことは難しい。「キリストには代えられません」という聖歌にあるような、「世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け」と大胆に宣言できる信仰こそが、世の空気に打ち勝つ最終的な武器ではないかと思う。
♪キリストには代えられません:https://www.youtube.com/watch?v=pjpJ71KIdPI
3.「世の空気」に抗う信仰者の闘い
その意味で、空気を操ることによってこの世を支配しようとする勢力にとって、最も厄介なのが信仰者である。共産主義国家において、宗教は苛烈な迫害を受けてきた。今でも、共産党支配下の中国では、チベット仏教徒、ウイグルのイスラム教徒、地下活動する非合法キリスト教徒たちは「反社会的邪教徒」として徹底的に弾圧されている。そして、この我が国日本でも、安倍元首相暗殺事件以降、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への一方的なメディアバッシングによって作り上げられた「旧統一教会=反社会的カルト」という空気にひれ伏した自民党は、法的根拠もなく家庭連合との「関係断絶」を宣言し、それを正当化するかのように文部科学省は家庭連合への解散命令を裁判所に請求するに至った。まさに、空気が国家を動かした瞬間だ。その過程において、諮問機関としての「宗教法人審議会」が正常に機能したとはとても思えない。本来公開されるべき議事録も隠蔽されたままである。解散命令請求については「全会一致」で賛成と報道されたが、文科省の役人が委員の自宅まで押しかけて「解散命令請求をしなければ内閣がもたない」と説得に回っていたとの報道もある(*)。統一教会擁護派と見られればメディアからの猛バッシングを受ける当時の空気を考えれば各委員は相当な圧力を受けていたであろうから、「全会一致」も不思議なことではない。
*参考記事:
https://www.sankei.com/article/20231012-XRSIQQ5YONNGDEQYH7MPXEP6JU/
歴史を振り返ってみれば、宗教界の中にも「世の空気」は強く流れ込み、その時代の宗教をも堕落させてきた。それに対して懸命に抗ってきた多くの司祭、牧師、宮司、僧侶などの宗教指導者に対しては心から敬意を表したい。イエスは「あなたがたは地の塩である。もし塩の効き目がなくなったなら、何によってその味がとりもどされようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。」と語られた。「世の空気」に押し流されない、塩のような義人が数多く現れるならば、日本の宗教界の未来は決して暗くないと信じる。
きよしにしなり『世の空気に抗う』