今と過去④
最近朝起きれない。
今日は出勤前にカフェで数学を勉強した。確率の問題演習をした。現代文or古文と数学を毎日やりたいので、朝方にしなければ……GW明けまでの課題にします。
【新卒社会人時代】
大学4年間で最低限の人間性を回復した私は、社会人になった。が、ここでやらかす。
一応充実した大学生活を送った私は、面倒な就職活動を後回しにしていた。どのくらい後回しにしていたかというと、6/1の面接解禁日にスーツを受け取りに行って、そのまま面接に臨むくらい、やる気がなかった。
そして、とりあえずスケールが大きく、グローバル感あふれる企業にエントリーシートを出したが、それすら面倒で期限に間に合わないことも多々あった。
当然落ちまくった。それでも、大学のネームバリューと就活慣れも手伝い、夏休み前に金融系の大手企業に内定した。留年危機を乗り越え、大学も卒業した。
桜咲く4月、東京本社の宿泊研修を終え、金融あるあるの地方支店配属が言い渡された。地方に赴任して一人暮らしを始めた。
初出社の前日、緊張と不安でいっぱいの中、まだ家具の無いガランとした部屋で布団を敷いて一人寝た時の、社会人としての初々しい不安は今でも鮮明だ。
翌日。出社すると、意外なことに直属の上司は女性だった。50代前半か。気になったのは、1つ上の先輩が1人いる以外は皆、30代以上で、いや30代でも若いといえる職場だった。
最初のうちは1つ上の先輩に言われる通りコピーを取り、資料の作り方を学び、メールを送って挨拶回りをしていた。会議も出たが、何を言っているかちんぷんかんぷんだった。それでも、いつか自分もバリバリ仕事をこなして出世していこうという意欲に燃えていた。
GWが明けた頃から、上司に詰められるようになった。一番最初は覚えてないが、とにかく、5、6月頃から会議資料の指示だとかイベントの運営の話し合いについていけなくなり、出社が嫌になった。
上司に呼び出された、机の前に立たされて叱責される時間がどんどん増えて行った。
結局、自分で一からやらないと仕事は覚えない。
今から思えばそれに尽きる。2年目になると、先輩はいなくなり、所属チームの仕事を自分が中心で回すことになった。一年目の女上司には「お前には無理」と言われていたが、結局自分で一からやるとなると知識も身につくし、なんとか進めていけた。加えて、二年目に来た新しい上司は話しやすく、それも助かった。
ともあれ、一年目の段階では先輩が気を効かせて業務の一部を回してくれていたのだが、それでは全体像が見えないから仕事も自力で回せない。上司も私を頼りないと思うからこそ、私ではなく先輩に仕事を振る。悪循環だった。もちろん、言われたことだけを引き受けていた私のせいでもある。
もう一つ、先輩のコミュ力はメチャクチャ高く、ただでさえコミュ障の自分は、大トロの横のガリくらいに無視されていた。
私も私で、年の後半になるとストレスのあまり反抗的になり、理不尽な上司の叱責に沈黙で返すこともあった。
仕事内容も面白くなかった。営業の成績をデータで拾い、間違えの許されない緊張感の中スピーディーに資料に落とし込むのがメインの仕事で、そのほか雑用や休日のイベントで着ぐるみに入るなどした。心底くだらないと思った。
世の中、こんなものかと思った。何のために勉強を頑張り、何のために生きてきたのか、自問自答の毎日だった。
桜咲く2年目。すでに述べたように新しい上司の元、人的ストレスは低減された。後輩も入社したが、同時にやってきたやはり一つ上の先輩とその後輩が仲良くなり、ランチに行く彼らを尻目に自分は黙々と仕事をしていた。ここまでくるともはやコミュ障のチャンピオンである。
仕事を回す充実感を覚え、諸々のタイミングが重なり朝7時から夜20時までノーランチで仕事が続く日もあった。上司は気にかけてくれたが、仕事をこなしてしまいたい自分はノンストップで仕事をした。結果、ある朝、久しぶりに見た鏡に映る自分が、自分と思えないほど激痩せしていた。確かに、ズボンもぶかぶかになっていた。
その後、研修のための異動が近づくと、後輩に業務を振るようになり、私はフリーになった。優雅にランチを食うようになり、めでたく激太りした。
こうして地方支店での一年半は終わるが、最後に不満を書いておきたい。それは、月の残業時間の上限が決まっており、申請できないので実際の残業の半分以上がサービス残業だったことだ。業務を効率化すればいいわけだが、新卒二年目にできることは限られていたし、これはまさに今の職場でも、直面している課題でもある。
いったん、次の記事へバトンタッチ。
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