今と過去⑤

【地方支店からの異動後〜退社まで】

入社1年目にしてパワハラ上司にコテンパンにされた私は、入社当時の、仕事人間になり出世するなどという妄想は微塵もなくなり、転職サイトに登録して本気で離職を考えていた。


が、地方支店からの異動後、同期が集められた研修でのイージーな勤務体系(ノー残業)にうつつを抜かし、転職のタイミングを逃した。そして、研修の終了後、憧れの本社配属になった。

胸を張って東京本社の社屋の高層階に出社した私。その部署が、新卒で入った会社での私の最後の職場となった。


結論から言うと、なんのやりがいも感じない仕事をしていた。詳しくは省くが、かつて憧れた霞ヶ関の役人が作る「長々と述べる割には意味不明で空虚な答弁」の下位互換を作る仕事をしていた。それでさえ上司の詰めでやり直しを食らいまくった。

コロナ禍で、一人自宅にこもり、仕事の進め方を誰にも聞けないまま、梅雨の陰鬱な雰囲気の中で時間だけが過ぎていくうちに、ついにメンタルが崩壊した。


上司に、「自殺を考えています」という内容をオブラートに包んで伝え、休職を願い出た。


まさか、自分が精神疾患になるとは思わなかった。厳密に言うと精神疾患になったから休職したのではないのだが。


今考えると、自画自賛で恐縮だが、この時の私はとても正しく動いたと思う。とりあえず会社を辞めるでもなく、とりあえず転職活動をするでもなく、いろいろ調べた結果、消化できていない有給を消化しつつ、休職しようと思った。とにかく、今後の生き方について考える時間が欲しかった。

なので、まず精神状況を上司に伝えた。すぐに産業医(会社お抱えの医師)を受診しろと言われた。適応障害の診断が出た。うる覚えだが、3週間?だか何ヶ月だかずっと気分が沈んでいると適応障害だ、という基準があるらしい。地方支店で女上司にやられていた頃から通算すると、紛うことなき適応障害だった。

その後、暫定で一ヶ月の休職となった。今でも覚えている。最後に出社したのは金曜で、土日を挟んで、月曜も仕事に行かなくていいとなったとき、最高の気分だった。


その間、医者やカウンセラーのところに通いつつ、薬も飲みながら、療養した。そして、転職サイトを見ていた。昔から、緑に囲まれた田舎の親戚のうちが好きだったり、釣りが好きだった。自然に関わる仕事がしたいと考え、ひたすら農業関連の求人を見ていた。


常に本当にやりたいことを考え、自分の心に正直に生きるようになったのは、この頃からだ。人生のどん底ではあったが、おそらく私の人生になくてはならない経験と時間だった。


農業への転職を模索する中、並行して勉強をしていた。最終は簿記をとったりしたが、結局、学生時代に不完全燃焼に終わった数学などの受験勉強の続きがしたいと思うようになり、少しやった。「今更、なんの役に立つ?」と思われるだろう。私も思った。しかし、唯一、わかっていることがあった。

自分は受験勉強に再チャレンジして、過去の後悔に決着をつけたいと願っているということ。

そして、そうした本心は、「今さらなんの役に立つ?」と押さえつけたところで、消えることはなく、むしろ時間と共に強さを増し、その思いを無視した私の人生を最後には後悔の炎で焼き尽くすことになるだろうということ。

それがわかっていたから、何の役に立つか皆目見当がつかなくとも、やりたいと思うこと全てに手をつけた。

その結果、こんな感じになった。↓

【退職〜現在】

・休職期間の終了と共に退職
・農業法人の仕事を体験しに、地方を回る
・晴れて農業法人への内定GET
・土壇場で内定辞退
・手に職をつけよう!と専門学校へ
・「違くね?」と思い1ヶ月でスクールをやめる
・しばらくは定職につかず、自分のやりたいことを考えることにする。飲食のアルバイト開始
・かつての憧れ、官僚になるべくスクールへ通う。
・再度「違くね?」発動。辞める。


……なんだこれ?と言う感じですよね。いつまでふらふらしてるのか、と自分でも思います。

転職活動で資格や免許を取るのにお金を使ったり、結局やめることになるスクールに大金をはたいたり……堅実な人生を求める人からすればダメダメですよね。

でも、実は満足もしています。少しずつ、やりたいことが、これに一生をかけてもいいと思えることが見えてきたからです。


会社を辞める前、最後カウンセリングを受けていたとき、カウンセラーといろいろ話しました。転職活動をする中で、いわゆる自己分析をして軸を絞りました。アルバイトをする中で、自分の性質というか、向いていることを見つけました(アルバイト自体とは関係ないけど)。


「色々やってみて、あれじゃない、これじゃない、という死屍累々としたものの積み重ねの上にしか、『これだ』というものは見えてこない。」

庵野秀明監督がそうおっしゃるのを聞いた時、まさにそうだと思いました。

官僚を目指すのをやめた後、私は通信制大学に入り、教員免許を取る勉強を始めました。今は、教育実習を控える身です。

教員といえば、学生時代は絶対になりたくないと思っていました。同じことを定年まで教え続けるなんてとてもつまらない……と安直に考えていました。

でも、大学時代も、正社員時代も、アルバイト時代も、後輩に教えたりするのは好きで、不思議と相手のために尽くそうという思いがありました。自分も生き生きとしていたのは後輩と過ごす時でした。先輩や同期とはあまりうまくいかなかったけど……

だから、教員になりたい。「年下と気楽にやりたいから先生になるなんて甘い考えだ」と思う方もいるでしょう。

いま学習塾で働いているので、保護者や上司や同僚との関係性があっての教育であることは身に染みてわかります。が、子供たちのためなら、決して得意でないそれらのことも、頑張れます。


働く目的、言い換えれば奉仕の先。それが顧客でもなく、もちろん自分自身でもなく、子供たちである。そんな場所は、(塾を含めた)企業ではなく、学校しかない。無償の義務教育は対価としてのサービスを提供する場所ではない。専門性と理想、責任感をもった教員が子供たちのために尽くす場所でもある。

教師は学び続けることが法的にも求められているし、子供たちが将来ふとしたことで思い出し、人生を決める決断をする糧になる経験を与えるには、それが授業なのか、はたまた1対1の話し合いの場面なのかはわからないが、深い教養と、専門的な知識、そして自分自身が迷いつつも選択を重ねて生きる経験が大事なのかと思いつつ学ぶこの頃。


通信教育はひたすら本を読んでレポートを書き、試験を受ける学びが基本。本を読み、自分の考えをまとめる。なんて面白いことなんだろう。

社会人経験があるからこそ、机上の学びを暗記に努めず、血肉として、どう活かすかを考える楽しさ。


教職課程だけでは空き足りない。大学院で学びたい。が、まだ、何を研究したいかわからない。今更と自分でも思うが、学部から学び直そう。

そう思ったとき、誤魔化さないでおいた自分の多面的な本心がようやく一つにつながった気がする。

後悔を引きずった受験勉強に再チャレンジし、今度こそ完全燃焼する。東大の文学部で学び、大学院まで行く。教養と専門性を身につけて、深い学びを提供できる教師になる。そして、子供たちには自分に嘘をつかず、最期には一生青春だった、と言えるような人生を送って欲しい。もちろん無理に遠回りする必要はないけど。

学習塾でも、学校の非常勤講師でも、教育の関わり方はいろいろだ。時間はかかってもいい。とにかく、博識で多様な価値観を受容できる人間性豊かな教員になりたい。そこを目標に、まずは受験勉強を頑張りたい。

乱文長文駄文にも関わらずここまで読んで頂いた方、ありがとうございました。「今と過去シリーズ」はいったんここまでにしようかと思います。

しょうもない自分語りにお付き合いいただき、ありがとうございました😊


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