"少し深め"の自己紹介(誕生&学生)
1.自己紹介にあたり
はじめまして、ひおっきー(@IamHiocky)です。
名字が日置(HIOKI)だからひおっきーです。
よく「鹿児島出身ですか?」と聞かれますが、本人は埼玉生まれですので悪しからず。(鹿児島に日置市という市があるんですよね)
今回、とあるセミナーに登壇されたメディアに関わる方から、「note書いてみたら?」と言われた一言をきっかけに、初めてみようと思いました。
「世界のDiversity&Inclusion」がテーマだったそのセミナーで、なんでそんな流れになったかというと、僕が「D&Iを知らない人に対して、教育的に伝えるのって、難しいですよね」ってことを話したからです。
当たり前なんだけど、結局、人間って何かを伝えるには、伝えたいことを表現して発信しないとダメなんですよね。
僕は、社会人のほぼ全部が企業人事のキャリアです。
対人支援が好きで、キャリアコンサルティングやキャリアカウンセリング、コーチングもします。
早く会社を切り上げて、色んなセミナーに足を運ぶし、自分でも企画します。
同時に、本業にかすりもしてないのに、保育士でもあります。(通勤時間等を活用して、独学での約2ヶ月間の勉強を経て、国家試験を1発突破しました!)
つまり、僕を構成している要素は、「ちょっと珍しい」自覚があります。
だからそんな僕の「ちょっと珍しい」色の眼鏡を通して、「見て・聞いて・感じたこと」を表現として残しておかないのは勿体ないと思い、こうしてnoteに手を付けた、というわけです。
半分は、自分の思考整理のため=自己満足なんですけどね。もしミジンコくらいのご興味さえあれば、是非ともお付き合い下さい。
2.とても昔の話
僕は埼玉県朝霞市で、3人兄弟の次男として生まれました。兄は10個上、弟は3つ下です。
今と違って、幼い頃はめちゃめちゃ「うるさいヤツ」だったそうです。声も大きいし、落ち着きもない。保育士となった今の目線で考えると、先生を困らせるタイプですよね。
余談ですが、最近は「次男っぽい」と言われることが多いんですよね。世間的には、3人兄弟の真ん中って、要領いいイメージが強いみたいなんですよね。その代わり、1つのことに真っ直ぐに集中できないという弱味もあります。
つまり器用貧乏!
僕はその典型だと思います。
さて、実は埼玉には4歳くらいまでしかいませんでした。その後、茨城県守谷市(当時は守谷町でした)に引っ越します。
住宅街の中で、近所に友達も多く、本当に我ながらのびのび育ったと思います。また、両親が出掛けるのが好きだったので、本当に色んなところに連れていってもらいました。しかも、特に人を呼ぶのが好きな母親は、ワゴン車に色んな家の子どもをぎゅうぎゅうに乗せて遊びにいったりしてました。
出口治明さんは「良いアウトプットを生み出すためには人・本・旅が大事」とおっしゃっていますが、これは本当にその通りで、やはりいつもと違うご縁=非日常を体感するということは、人間としてのベースが鍛えられてる感じがします。この点、両親には本当に感謝をしています。
さてさて、実は茨城には7歳くらいまでしかいませんでした。その後、父の実家がある東京に引っ越します。小学校2年生でした。
いま思えば、小学校の半ばまでは、自己肯定感が高い子どもでした。理由は単純なんですが、その時点では背も高く、運動がわりと得意だったからだと思います。毎年リレーの選手にも選ばれてました。さらに、体が強く、恐らく小学校3年あたりから1日も体調不良で学校を休んでないと思います。
実はこれ、中学・高校・大学・社会人と、ずっとなんです。覚えてる限り、約25年近く皆勤!大学の授業すらサボったことないという真面目さ。
そんな中、小学校終盤に、自己肯定感を下げることが発生します。それは中学受験の勉強です。
今もそうなのですが、その頃から僕は肩凝りがひどくて、とにかく集中しようとすると体が緊張状態になって息苦しくなることが多かったのです。それも合間って、とにかく勉強、特に数学は大の苦手。模試の結果、志望校の合格率は5%と散々。その頃から、ちょっとした劣等感が芽生え始めます。
でも、運だけはよかったようで、その5%の志望校に合格します。
3.まあまあ昔の話
中高時代は、世田谷学園という中高一貫の男子校で過ごしました。柔道が有名で、オリンピックの金メダリストを何人も排出している強豪校でした。さらに、仏教校でもあり、授業に座禅がありました。
さて、この中学高校時代、特に前半は劣等感がさらに膨らみます。その理由は主に2つ。
まず、成績が悪かった。ギリギリで合格したので当たり前と言えば当たり前なんですが、もうほぼクラスの最下位付近を走り続けてました。特に数学は悲惨で、の○太くんしか取らないと思っていた「0点」を取ったこともあります。
もう1つは、部活で入った陸上部です。小学校の頃は足が速かったのに、中学ではまったく伸びず。筋トレしてもあまり筋肉が付かない体質だったのか、実は中学高校の6年間で100メートルのタイムがまったく伸びないという奇跡。ある意味、自慢です。
しかし、高校1年のときに転機があります。筋金入りの引っ込み思案だった僕は、なぜかカナダの姉妹校への交換留学に手を上げたのです。英語の成績もめちゃめちゃ悪かったのに、です。
その背景には、その前年にホストファミリーとして、短期で2人のカナダの学生を受け入れたという経験がありました。昔から人を呼ぶのが好きな母親は、普通は大体どこの家庭も1人しか受け入れないのに、「うちは2人にしよう!」と言って2人を受け入れたのでした。いま思えば、そのちょっとした他の生徒との経験の違いが、短期留学の背中を押したような気がします。
今思えば、ですが、交換留学の経験は、劇的とはいかなかったものの、僕を少し変えたと思います。そこから少しずつ成績も延び始め、高校3年のときはクラスの平均くらいの成績になっていました。数学は相変わらず大の苦手でしたが。
その先に控える大学受験はというと、僕は特にやりたいことがなかったので、幅広い分野を勉強できる社会学を志望しました。これは母親の影響もあり、実は母親は僕が中学に上がった頃から「学び直し」をしていて、大学の通信を5年で卒業した後、社会学を学んでいました。家事をこなしながら毎日5時間も6時間も机にかじりついていた母親の姿は、かなり印象に残っています。
結局、大学受験の結果は全体的に芳しくなかったのですが、僕はセンター試験での入試で、明治学院大学の社会学部に入学することになります。
ちなみに、この受験の頃、当時ちょくちょく流行っていた「オープンチャット」(色んな人が集まってチャットする)のサイトで、高校受験を控えた3つ下の女の子と知り合います。彼女とは家が近かったので、何度か顔を会わせ、大学に入る前にいわゆる「お付き合い」を始めました。当時はお金がないものですから、寒空の下、公園のベンチで座って喋る、みたいなことをしていました。そのままなんだかんだで、約13年後に入籍することになりますが、それはまた別のお話で。
大学以降の話は、また次の記事にてご紹介しますので、今回はこの辺で。
(続く)