無害な生き物と有害な優しさ
居心地の良いところに棲みついている。心も、身体も。
鬱々とした気持ちとは裏腹に、部屋は片付いている。ここに来た時からその姿は変わっていない。殺風景で、生活感をまるで感じない部屋。
ここが、一番落ち着く場所だと私は思う。自宅よりも学校よりもカラオケよりも。
なのに、周りは「危ない」と言う。両親も、友人も、「あなたを理解できるのは私だけ」という顔をして、「そこは危ないから」と私の居場所を奪おうとする。居心地の良い場所なんて提供できないくせに。
誰とも話さず、誰にも構われず、生きていける場所だった。人間の気配は感じるのに、人と関わらなくて良いというのはとても気持ち良かった。初めて私は生きていられた。
大人になれない私に必要だったのは、こういう場所なのだと思う。
母親は言った。「怖い。」それは私を心配しての言葉ではなかった。自身に及ぶ危険性に怯えていた。否、危険が及ぶことは無いのに。
皆がバケモノ扱いをしている。世間的にも風当たりの悪い状況なのはわかっている。
ただ。私にとっては、ショッピングモールで走り回る子供の方が怖かった。大学生の合コンで唾を撒き散らしながら喋る男が怖かった。ゼロ距離で触れてくる女が怖かった。
世間が、バケモノだった。
そして世間にとってのバケモノは、私にとって無害な生き物だった。弱く哀れな生き物だった。
「弱者男性は〜」から始まる語り口。「これだからフェミニストは。」という定型文。旦那の文句をコミカルに書く主婦。逆説的な文章でバズりを狙うアカウント。
SNSを覗けばありとあらゆる世間体が転がっている。それが世間だと思い込んでしまう。世間の同情は、有害な優しさだった。
私が願うのは、ただこの無害な生き物が世間の目に晒されることなく生きていくことだ。
周りの人間がいくら私から離れていっても、有害なものが取り除かれていただけに他ならなかった。両親が侮蔑の目で見てくるのは耐え難がったが、それもどうでもよかった。
少なくとも、私はここで本が読める。うるさい音に晒されずに済む。誰にも口出しされずに食事にありつける。そして何にも恐れることなく、涙を流すことなく眠れる。それが全てだった。
生きることが、肯定されていた。
人は皆どこかおかしくて、それを隠しながら生きている。だから私たちはひとりぼっちのように感じてしまうし、自分だけがひとりぼっちだと思い込んでしまう。誰かと心が繋がることができたなら、私たちはもっと穏やかでいられたのだと思う。
けれど頭の中を無線で繋げることはできないし、そもそも私たちは分かり合えない。
「理解は誤解の総体」と村上春樹は書いたし、
アルフレッドシュッツは、他人を理解することはあくまで「自己解釈」を「他者理解」に当てはめることにすぎないと言った。
だから、もう誰もわかってくれなくていい。この無害な生き物が、世間にとって毒物でも私にとっては解毒剤だった。
もう、他の人間は性格の悪いこの人間を救おうと手を差し伸ばさないでいいし、「生きているだけでえらい」なんて言ってくれる謂れもない。
なのに。どうしてだろうか。友人の、家族の優しさに包まれた手を払うことができない。喉の奥から欲しかったものがこの優しさだったのかもしれない。
有害で危険な優しさもまた、私は愛おしく感じた。