火野佑亮トリセツ 自分の障害を面白がる
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視られることが大事
一月、東京へ行ってきた。色々な方々と様々な話をして、時にアドバイスをもらったりもした。その結果浮かび上がってきたのは、自分は他者と比べ、何かが決定的に欠けているという事実だった。
人は他者の眼差しを介することでしか己を発見できない。これは世の常だ。自分が知りえぬ自分、つまり無意識としての自分がいるという前提をひとまず置いておき、自己同一性なるものを仮構するには、その外部たる「なにものか」に視られることが決定的に重要なのだ。
こうしたアニミズムに近い発想は日本文化と決して無縁ではない。日本人の仏教受容の背景には「なにものか」(ひと昔前によく言われていた、「お天道様」はこのうちの一つだ)に視られるという発想があった。この視線への意識は、近年人類学が追究してきた世界観の基礎に他ならない。日本人にとっての仏教を知ることは、最高のアニミズム人類学入門になるというわけだ。その流れを基礎から学べる本の紹介を、「火野佑亮の文化人チャンネル」は予定している。乞うご期待。
立派なアスペ(笑)
少々話が脱線した。これまで他者に視られることが重要だと話してきたが、僕はこの視線を意識するということがとことん苦手であり、仮に視られていると分かったとしても、その意図がまったく読み取れないのである。別に病名を求めるわけではないが、僕は立派なアスペなのだろう(笑)
思い返せばそのような兆候はいくつもあった。例えば複数人での会話。どのタイミングで話せばいいのかわからない。満足に読み取れないまま、次々にコンテクストが移っていくため、とりあえず一方的に聞いておく。聞いているフリをしておくこともよくあった。もちろん自分から話題を提供し、相手の話を聞き出すことなど不可能に近い。
様々な音が散らかっているゲームセンターなどに行けばなおさら酷くなる。環境音と人の声が混濁して頭の中に流れ込んでくる。カオスそのものだ。会話をうまく聞き取れないまま返事を求められた時、問い返すことも相手に申し訳なく思い、遠慮することがあるけれど、ここではそうはいかない。何度も聞き返し、ようやく会話が成立する。
自分を面白がる
先ほど「(笑)」という表現を用いた。ここまで述べてきた症状に対する短期的な戦略として、僕は笑いを用いるのだ。以前、笑いを「ウィット」と「ユーモア」に大別し、後者を「主体性を引き受けたぬくみのある知性」として称揚する雑文を記した。
笑いには対象への違和感を示す側面がある。その一方でベルクソンが言うような、日常の反復による機械的な凝固からの回復という側面もあろう。
アスペルガー的な傾向を持つ人間は、社会生活に適応しようとするあまり、精神の過度な緊張にさらされる。笑いの中でも対象を己の傾向に見出すユーモアは最適な処方箋と言えるのだろう。
僕は今後、自分のアスペルガー的な気質を俯瞰し、面白がりつつ、社交における小さな気付きを積み重ねていくつもりだ。ここまでお読みいただいた読者の方々には、そのように振る舞う僕を気兼ねなく馬鹿にし、笑い飛ばしていただきたいのである。
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