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行き当たりばったりに生きてたら23歳でレストラン開業することになっちゃった話(経緯・理由・開業資金の貯め方・夢)
こんにちは、初めまして、日野貴明です
2021年4月を目標に石川県七尾市に飲食店「ひのともり」を開業準備中です。
題名通り、これまで行き当たりばったりに生きていたらとんとん拍子に話が進み、遂にオーナーシェフになることになりました。
今まで何をしてきたのか、なぜこの時期に?どうして?開店資金は?など個人的な日記代わりに書いていきます
興味本位で読んでいただけたら幸いです!
あらかじめお伝えしますが、きっと長い記事になります笑
目次から気になる章に飛んでいただければと思います!
僕が料理人になった理由は、料理上手だった祖母の影響が大きいのですがその他に
・食べるの作るのが好き・スーツじゃない・毎日変化がありそう・モテそう
と半分以上は不純な理由です。でも好きなことを仕事にできるって幸せだなって。
僕にはサラリーマンは絶対に向かない。だったら自分で城を構えて生きていこう。
そのためのツールが僕の場合は料理だったという事です
僕はこれまで、周りの一流料理人の方々のように寝る間も惜しんで死ぬ気で料理を取り組んだわけではありません。むしろ途中で挫折した人間です。
ただ料理は好きです。料理を召し上がって頂いて幸せになってもらう為に、まず作る自分自身が幸せ、楽しいって思えるような生活を送ることが大切じゃないかなと考えています。自分の人生だから自分が第一優先じゃないともったいない!
周りの方々の協力を受けながらではありますが、曲がりなりにも23歳で自分のお店を持てた、そのマインド的な部分をお伝えできたらと思います。
(おこがましい書き方ですみません!)
第一章:石川県で「オギャー」 21年目にして再び石川県へ
まずざっくり今までの人生を振り返りたいと思います。
19歳までは特に内容がないので興味がない方は飛ばされて結構です。笑
0歳 石川県金沢市に生まれる
3歳 両親の転勤で母親の実家のある東京都立川市に引っ越す
8歳 小3 遊びに夢中で家のルールを守らず近くに住んでいた祖母に怒られ、恐らく最初で最後の坊主にさせられる。共働きだった両親に代わって宿題を手伝ってくれたり、毎晩ご飯を作ってくれたり、厳しくも優しく面倒を見てくれた。
絵に描いたような料理上手の祖母の料理は心を満たしてくれる何かがあった
この頃からなんとなく料理人を目指すようになる
13歳 中1 校則を守らず半年でバスケ部退部させられる。懲りずにひたすら遊ぶ
15歳 中3 第一志望の調理専門学校に遅刻が多すぎて入試資格なし
16歳 高1 調理コースがある高校に入学。ラグビー部に入る
17歳 高2 部活柄、調理→体育コースに半強制移籍。おかわりの回数を減らす為ご飯茶碗は大容量のタッパー。体重60kg→86kg
18歳 高3 部員100人の中からキャプテンに選ばれる。引退。周りの説得もあり大学進学
19歳 大1「学校行ってくる」と嘘をつき地元ホテルの厨房でバイトの日々 ↓
家に帰っては「ゼミ仲間と飲んでた」「課題終わらない」と、いかにも大学生活謳歌してるようなセリフ
↓
半年後、大学から「日野くんが一切大学にきていません」の通知。ついにバレる ↓
大学中退。通学日数驚愕の3日。品川で一人暮らしを始め、料理を真剣に学ぼうと思い、紆余曲折あって目黒区五本木のフレンチレストラン「ボンシュマン」に入社。人生最高のレストランに出会う。直球に美味しすぎる。一つ星の厨房で仕事を任せてもらえる。今でも可愛がってくださる花澤シェフには頭が上がりません。
21歳 祖母の死も重なりボンシュマン退社。直感的に地方に行こうと思い総務省の「ふるさとワーキングホリデー※」を利用して、退社から1週間後に岡山県矢掛市の果樹園に併設されたカフェに。滞在期間2週間の間になぜか2回テレビに出る。
岡山体験終了後は、ワーホリを使いもう一箇所
能登半島最北端・石川県珠洲市の、夫婦で営む、とある食堂へ
絵に描いたような田舎にある食堂との出会いが
人生を変える大きな『分水嶺』になります
※都市に暮らす若い人たちが、
一定の期間、地域に滞在し、働いて収入を得ながら、
地域の人たちとの交流の場や学びの場などを通して、
通常の旅行では味わえない、地域を丸ごと体感してもらい、
地域とのかかわりを深めてもらおうというものです。
・公式HPより引用・
第二章:行き当たりばったりが急加速する
能登半島最北端の珠洲市の食堂で働こうと思った理由は
・仕事が楽そう
・勤務時間が短い
・目の前が海、釣りができる
・最北端って面白そう
・奥能登っていい響き
・なんか地方ってますます注目されそうだな
特に深い考えはなく、せっかくだったら行けないにとこに行ってみよう
岡山のカフェ同様ここも2週間で帰る予定でした
………が、気づいたら石川を離れたのは一年半後でした。笑
立川とはいえ東京出身の僕がすっかり田舎に染まっていました
東京での修行生活に疲れて「将来はゆったりカフェやろうかなー」なんて傷心気分で地方に来たはずなのに気づいたら石川に来てから半年後に、
一年限定のフランス料理店をがっつりオープンしていたのです
第三章:東京には少ない観光地ならでは飲食店の形
石川県といえば東京から北陸新幹線一本で来れるアクセスの良さ。
東茶屋街や金箔で有名な金沢
日本三代朝市の一つ輪島市の輪島朝市
加賀市の加賀温泉郷
日本一の旅館として知られる七尾市和倉温泉の加賀屋
全国の白山神社の総本山、白山市白山比咩神社。観光資源はあげればキリがありません。
金沢から少し南にある野々市市は2020住みやすさランキング1位に選ばれているなど。観光にも定住にもちょうど良い土地です
ですが僕が働く食堂は金沢から車で北上すること2時間半。
最寄りの空港からレンタカーで1時間弱。
「石川プチ旅行」では絶対に訪れない、なんならちょっとした覚悟が必要です
そんな食堂がどうやって経営を成り立てているのか、、、
「観光バス」です
皆さんも一度は見たことがあると思われる、新聞の折込チラシで入ってるアレです
僕の働いていた食堂では、観光会社が催行するツアーの食事会場として海鮮丼や能登牛丼、カニ丼を提供していました。
何ヶ月先までの予約も、客数も、売り上げも決まっている。
勤務時間もキッパリ決まってる。ホテルのようだけど小さい個人店。
多い時にはランチだけで一台40名弱の観光バスが4台来る
安定してるし、個人の客さんを待つより経営的には、はるかに効率がいい。
東京で働いていた頃は、何かの途中にお店の前を通って気になって来店される。
少し遠いところからでも電車を使って食事にくる。
たとえ当日の朝、予約が0でもランチが始まる頃には席が埋まることもザラでした
ここは違います。近くのコンビニまで最低30分、歩行者もいなければ最寄り駅まで車で1時間。でもランニングコストは圧倒的に安いし、粗利率で言ったら都内の飲食店より相当いいです
辺鄙な場所ですが働くみんなにゆとりがある
拘束時間も短い。
目の前の海で釣りして、釣れたら捌いて頂く。
仕事終わりドライブして知り合いのカフェでまったりする。
傷心していたぼくにはオアシスのように感じました
観光地ならではの飲食店の新しい形に出会い、
料理人として人として一気に視野が広がりました。
その食堂のオーナーの実家は同市にあり、北前船で財を成した築180年の
豪邸です。しかも住居兼店舗として飲食店営業許可を持っていました。
いわゆる古民家レストランですね。
(未だに江戸時代から住み続けている実家の古民家をレストランにした店舗は見たことがありません笑)
そしてその店舗を使ってレストランをやってみない?とお話をいただきました。
(↓赤い印がそのレストランです。超秘境です。)
第四章:一年限定のレストラン「ひのとキッチン」オープン
ざっくり収益モデル。肌で感じた地方の本質。
21歳で、仕入れ、原価計算、内装、メニュー、集客、いろいろ経験できる。
しかもノーリスクで。
完全にオーナーのご厚意でしたが、これはなかなかないチャンスだと、いつも通りのやってみよう精神で始めることにしました。オーナーには感謝しかないです。
腕を磨く為に修行するのも大切な事ですが(僕は途中で修行をやめた人間なのであまり言えませんが)、将来開業したいんだったら早いうちに始めたほうが経営力含め戦闘力が身につくんじゃないかな。
もし赤字になったら辞めて、リセットしてまた違う形で始めればいい。
最近はゴーストキッチンとかシェアキッチンとか自分の「場」を作るハードルが低くなっていますし、間借りレストランや出張料理など提供方法も多様化してきています。コンテンツが細分化してきてサービス業のファンビジネス化が加速している気がします。
どんな形でもとにかくやってみる
発信する。人の目に止まる。
気持ち良いくらいの負荷をかける
ストレスから何かが生まれる
途中で辞めたとしても
やる前より圧倒的にレベルアップしています
そうして始めたレストランが「ひのとキッチン(日野+能登)」です
手作り感、、、
ただ自分で一から始めたわけじゃないし、とりあえず一年限定で。
そしたら一年後にはまた面白い世界が広がってるんだろうなーって。
と言って始めたはいいものの、地元の方は
「フレンチ?しったくさい(能登弁で:良くも悪くも意気がっている)」
と感じてましたし、ただでさえ飲食店は多くないのにフレンチに馴染みなんてあるはずがありません
そこでまずは食堂同様、観光ツアーのお客さんにフランス料理を提供することになりました。するとありがたいことにツアー催行日が増え最終的には安定した収入を得ることができました
ここで、参考までにですが仮に、
観光バス一台に30人乗るとします。1日に1台。1ヶ月15台来るとします
【30×軽くフレンチを食べる値段×15=1ヶ月の売り上げ】
その中から原価、人件費、光熱費、旅行会社に何%かリターンするので何割は引かれますが、21歳が貯金するには充分でした
単純計算で1ヶ月に450人。半年で2700名分の料理を作る。
料理面でも経営面でもいい経験になりました
アルバイトもシフト制で計10名くらい。みんな年上
若造の手伝いをしていただいた皆さんには感謝しかないです
また珠洲市は奥能登国際芸術祭の開催地でもあり、典型的な田舎の閉塞感をあまり感じずむしろ新しい文化を取り入れるキャパを持っているイカした田舎でもありました
若い移住者も増えています。
その芸術祭の一環として著名なアーティストの方が定期的にイベントに訪れます
角田光代さんがいらっしゃたときは、出版された本から料理を抜粋して再現して作ったり。
山下洋輔さんのディナーショーの時はを50名分、仕入れから担当させていただいたりしました(しかも同じ立川出身ということで勝手に運命を感じてました)
ツアーがない日には、個人のお客さんが来店してくださったり、地方誌に取り上げられたり、新聞に乗せていただいたりとても充実していました
ここで重要なのが見ず知らずの土地に来た僕に仕事を振ってくれた人・働く場を用意して頂いた人がいたということ。
受け入れれば受け入れてもらえる。独りよがりはダメなんだなって
近所付き合い、物々交換がいまだに残る地方では競争でななく共存
コロナ禍で地方が注目されている本質はもしかしたらそこにあるんじゃないかなって感じていますし、僕自身とても居心地が良かったです。
ただ行き当たりばったりでやってみたいことを始めると予想だにしないチャンスが転がってくることも学びました
第五章:石川を離れ福岡に、そして再び石川に
能登の風土も好きですし将来的に能登で自分のお店を持ちたいとは思っていました。
ですがこのままおんぶに抱っこでもしょうがないので、約束通りオープンから一年でお店を畳んで行くあても特に決まらないまま一旦石川を離れることにしました。
ちょうどコロナが流行りはじめ東京がロックダウンするかもとのデマが流れていた時期だったので、実家に帰らず福岡県に行くことに。
福岡では道の駅の中にある併設されている鮮魚店で、アルバイトとして、早いと朝三時半起き生活を半年続けました。
小さな道の駅なのですが平日でも1000人近くの来場があり、お客さんの大半の目当てが鮮魚。
その鮮魚店の社長はまさに「九州男児」といった雰囲気。直接お話しさせて頂く機会が多く、流通・小売業のビジネスの広げ方、ひいては男としての生き様を教えていただきました
休みの日には養蜂場や農家、牧場直営のレストランなど色々経験してみようと動き回りました
そんな生活をしながら次の場所を探していました
そして半年後、石川に戻るきっかけになるお話が舞い込んでくるのです
第六章:人との繋がりで自分の将来が広がる
「知り合いの方がレストランを畳むのだけどよかったらみてみない?」
石川でお世話になった食堂のオーナーから連絡をいただきました
ありがたいことに僕はこれまで人と運に恵まれてきました。
焦らなくていいよ。しかもこんな時期に。と言われる時もあります
焦ってはいません。
が、失敗するんだったら早い方がいいなとは思います。
失敗した分だけブラッシュアップされていくから
でも僕的には逆にこの時期でよかったなって思ってます。
コロナベース。上がっていく見込みしかない。
エビデンス0。肯定感MAXで頑張ります
遊ぶときは遊ぶ。働く時も楽しむ。
そしてそれが現在、開業準備中の「ひのともり」です
日野。能登。火の灯り。
今まで出会った人に良くしてもらったように、
これからは料理、店を通して温かくなってもらえる空間を作りたいと思っています
最後まで読んでいただきありがとうございました
今後も投稿する予定なので何卒よろしくお願い致します
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