桜の舞う頃に雪は舞う③
目を覚ますと、携帯電話に着信があったことに気づいた。紅葉からだ。……こちらから折り返す気にはならず放置することにした。起きても何かをする気が起きず、昨日描いた絵をぼんやりと眺めていた。ふと、時計に目をやると昼を過ぎていた。
「ダァッダァッダァッダッダダダン、ダァッダァッダァッダッダダダン……」
某暗黒卿のテーマソングが流れてきた。紅葉からだ。僕が設定したわけではなく、由乃が僕の携帯電話をいじって設定していた。そのまんま放置していると、着信音は佳境に入っていた。今にも敵国の悪い奴が襲い掛かってきそうな雰囲気だ。
「…………もしもし」
しばらく考えたが電話に出ることにした。
「やっと出た。義兄さん、今大丈夫ですか?」
「……何だ。電話で良ければ話を聞くよ」
「えーっと、実は折り入ってご相談が……」
「……言いにくいことか?」
「いえ、……いやそうなんです。電話でお話するのはちょっと、という案件でして、できればこの前行った喫茶店に来ることはできませんか?」
頭を一瞬悩ませたが、快諾することにした。今日は何もすることもない。いや、何もやる気が起きない。どうせ、無為に時間を過ごすなら、由乃が大事に思っていた人に貢献する方がよっぽどいい。
「分かった。時間はいつがいい?」
「すぐにでも」
「流石に僕も準備がいるから、一時間後に集合でいいか?」
「分かりました。先についたらコーヒーでも飲んで待ってますね」
電話を切ると、軽くシャワーを浴びて身支度を整えた。すると、体がさっぱりしたせいか、幾分気分が落ち着いた。それから適当な服を見繕って玄関の扉を開けた。
うつむきがちに街並みを歩いていると、学生の声が聞こえてきた。視線を上げて、声がした方を見るとどうやら体育の授業中のようだった。元気そうに外を走り回っている。由乃と僕が通っていた高校だ。卒業して以来、一度も行っていない。さして興味もない。心残りがあるとするならば、美術部に残していったはずの自分の絵の行方くらいだろうか? 卒業間際、書いていた絵が盗まれた。部活引退後、どうしても書きたい欲求が抑えらず、ちょくちょく顔を出していた。僕にしては納得のいく出来のものが出来ていて、もう少しで完成というところだった。卒業式の日に取りにいったら、なくなっていた。
僕にとっては、人生の中で一番上手く書けていたと思っていただけに、それを仕上げることが出来なかったのが未だに心残りになっている。一体、あの絵はどこにいったのだろうか、そんなどうしようもないことを考えながら歩いていると喫茶店が目に入ってきた。
「カラン、カラン」
こ気味のよい音が鳴り、眼前に落ち着いた雰囲気の喫茶店の内装が映る。どこにいるものかと視線を彷徨わせていると奥の方から手をぴょんぴょんさせている紅葉がいたので、そこまで移動する。
「待ったか?」
「いえいえー、今来たところですよ」
コーヒーカップから湯気がまだ出ているところを見るに、気を遣って言っている訳ではないようだ。
「ところで相談したいことっていうのは?」
「まぁまぁ、もちろんお話しますから。ただ長くなるかもしれないのでとりあえず、何か頼みませんか?」
店員を呼ぶと入り口に立っていた店長が来る。
「ホットコーヒーを一つ。以上で」
「えぇ義兄さん、何も食べないんですか?」
「もう、四時だろ。今食べると夜食べられなくなるからな」
五日近く飲み物以外は口にしていないが、食欲が湧かないので食べる気がしない。
「えー、もったいないですよ。ここの料理めちゃくちゃ美味しいですよ。……私ホットサンドお願いします」
店長は復唱せずに、一度だけ頷くと厨房に消えていった。
「で、相談っていうのは?」
「実は、この前借りたコートなんですけれど、雪が降っていたのに自転車に乗って帰ったせいで、途中でこけてしまいました。その時、コートに泥がついて汚れてしまったので今クリーニングに出しています。ですからもう少しコートを返すの待ってくれませんか? 本当にすみません!」
紅葉は頭を下げてきた。
「そんなことは別にいいよ。それより怪我しなかったか? コートなんかより、そっちの方が心配だ」
「あっ、ええ、それは全然大丈夫です。でもあのコートかなりいいブランドでしたよ。怒っていないんですか」
「肌触りと質感が良かったから買っただけで、別にこだわりはないよ。紅葉が無事ならそれ以上何かを望むことはない」
本心だった。たかがコートだ、もしここに作り手がいたとしても、着用者の身の安全を望むだろう。洋服は着る相手を思って作られている。ならば、洋服が傷つくことよりも着用者の安全を憂慮するだろう。それこそ、何十年も続く老舗のものであればなおさらそういう思いは強いはずだ。
「……もしかして、今日呼び出したのはそのことでだったのか?」
「あっ、えぇ。流石に電話で謝るっていうのは少し誠意が欠けている気がしまして……」
僕は紅葉に見えないように溜息をついた。はぁ、こんなことなら家でぼうっとしていた方が良かった。
「ホットコーヒー、お待たせ」
店長がコーヒーをテーブルに置く。
「ありがとうございます」
「うわぁ、いい香りですね。湯気にのって、香りがここまで届いてますよ。流石、店長」
店長は誇らしげに、少しだけ顔を上に向けるとそのまま去っていった。目の前に置かれたコーヒーの匂いを嗅ぐも、かろうじて豆の匂いがするだけだ。外にいる時の匂いと店内の匂いの違いがあまり分からない。嗅覚は未だに鈍いままだ。別に困ることもないが。
「義兄さん、まぁぐいーっと飲んでくださいよ」
「酒じゃないんだ。ゆっくり頂くよ」
舌にコーヒーを運ぶも相変わらず味はしない。何ともいえない奇妙な感覚だ。ただ、もしも味を感じる時に飲んだのなら、きっとおいしいのだろうなと思う。味はしないが、相手への気遣いをこのコーヒーから感じることはできる。
「最近はどうですか、義兄さん? 仕事の調子とか、その他諸々」
僕は、深く突っ込まれないように無難な言葉を選ぶ。今も在宅で仕事を受けている事や少しずつ、由乃の死にも前向きに考えられるようになってきた、というでたらめを吐き続けた。
「そうですか。義兄さんは凄いですね。うちの家族はまだ何だか雰囲気が暗くて……」
「……それはそうだろうな、代用の効かない家族を失ったんだ、それが普通だ。乗り越えるには時間はかかるだろうが、家族で肩を寄せながら少しずつ乗り越えていったらいいと思う。そのための家族だろう」
「えぇ、そうですね。……実は義兄さんにもう一つお願いがあって、うちの家族に会……」
視界の隅で店長が料理を持って待機しているのが見えた。おそらく話の腰を折らないようにそうしているのだろう。紅葉には悪いが、話が長くなりそうなので手をあげて店長を招き寄せた。
「……ホットサンド、お待たせ」
「あっ、ありがとうございます」
店長は料理を机に置くと、レジカウンターに行き、椅子に腰かけ、文庫本を読みだした。出来立てのホットサンドは湯気を上げ、パン生地はカリカリになっている。半分に綺麗に切られ、中からはとろとろのチーズが漏れ出している。
「うわぁ、美味しそう」
「すまないな、話の腰を折って、ところでお願いって何だ? 僕にできることで良ければ聞くよ」
紅葉は少しだけ考える仕草をして答える。
「あっ、すみません。忘れちゃいました。また次会う時までに思い出しておきますね」
「そうか」
「……そりよりも義兄さん、最近どうですか?」
「何のことだ?」
「姉さんの日記のことですよ」
「……あぁ、由乃の声を聞くと、気分が少し明るくなるよ。それに、僕が知らない由乃の話を本人の声で聴くことができるっていうのは、それだけで随分楽しいよ。昔から小狡いところがあって安心したしね。紅葉も由乃には苦労をさせられているのが分かったよ」
「もぉー、本当にそうなんですよ。お姉ちゃん、いっつも、いいとこ取りばっかりで、面倒なことはいつも私に任せてくるんですよ。本当に酷い姉ですよね」
紅葉はそれからも由乃が幼いころの話をしてくれた。由乃の話をしている紅葉の顔は嬉しそうで、それだけでここに来てよかったと思えた。未だ、由乃が消えたことに苦しんでいるだろうが、紅葉達ならきっと乗り越えられるだろう。その一助になれたのであれば、嬉しいことだ。
「……義兄さん、笑った姿、とても可愛らしいですね」
「はっ?」
言われるまで気付かなかったが、自分の頬に手をやると口角が上に上がっていた。それを見られたのが恥ずかしかったのか、不器用な引きつったような笑みを作ってしまう。
「あぁ、なんでそんな顔するんですかぁ」
紅葉は、心底残念そうな声色で僕を責めてくる。僕は適当に受け流した。……でもそうか、僕は笑っていたのか、まだ人前でも笑うことができるのか。そのことに安堵感と何ともいえない罪悪感が僕を包んでくる。…………。
「義兄さん、今どのくらいまで聞きましたか?」
「五年生の途中までだ」
「……そうですか。意外に早いですね」
「あぁ、仕事をしながらバックミュージック代わりに聴いているからな」
呼吸をするように嘘を吐く。
「ふぉれは何より」
紅葉を見ると、口いっぱいにナイフで切ったホットサンドを放り込んでいる。齧歯類が頬に餌をため込んでいる姿に見える。
「美味しそうに食べるなぁ」
「ええ、美味しいですよ。だから、ここのは美味しいんですって」
しばらく、目の前の食事が頬袋に放り込まれていく様を黙って眺めていた。そうしていると視界が段々霞んでくる。自分の瞳から光が抜けてくるのが分かる。まるで、機械の電源がオンからオフに切り替わるように、目の前の景色の色彩が消えモノクロへ変わっていく。
そういえば、僕は本来こんな世界で生きてきた。由乃に出会ってからが異常だったんだ。由乃に会うまでは、いつも現実が自分のものとは思えなくて、空気が上手く吸えなかった。呼吸をしているのに、苦しくて常に酸欠の金魚の様に空気を求めて生きていた。そんな僕の唯一の呼吸法が絵だった。苦しくて、逃げ出したくて空気を吸えない時、絵を描いているその瞬間だけは、そのことを忘れることが出来た。だから、僕は絵に縋り付いた。それだけが自分が唯一、この世界で呼吸をする方法だったから。由乃と出会ってからは、それ以外にも呼吸が苦しくない瞬間が増えた。だからそれと共に、絵を発作的に描くようなことも減った。…………。…………由乃、君が僕に、僕が生きていける世界をくれたんだ。
「……義兄さん、おーい」
「えっ」
意識を取り戻すと、眼前で手を左右に振っている紅葉の姿が見えた。
「義兄さん、私の話聞いていました?」
「あっ、あぁ」
モノクロな思考から抜けると、慌ててそう答えた。
「……なら、良かったです。それじゃあ、はい」
そう言うと、紅葉は僕の前に丁度半分だけ残されているホットサンドの皿を差し出した。
「えっ、どういうこと?」
「あー、やっぱり聞いてなかったじゃないですか。もう、お腹いっぱいだから食べられないので良かったら食べませんかって言ったんですよ」
「……あっ、あぁ、そうだったな。でもさっき俺も言っただろ、晩御飯があるから食べれないって」
「そうですか、残念です。それじゃあ、やっぱり残すしかないですね」
紅葉はそう言うと、ホットサンドの皿を自分の所へ戻した。
「………………はぁ、残すなら食べるよ。その代わり、その間、由乃との思い出話でも紅葉の悩み事でも何でもいいから話してくれ」
祖父母が死に、両親が死んでからというもの、物を大事にするという考えが定着した。僕にとって、残された財産とは僕が愛した人たちが僕に残してくれた愛そのものだったからだ。一円たりとも無駄にはできない。だからこそ、両親から残された財産で、自分に何を与え、何を残すかというのを常に慎重に考えて生きるようになった。残したり、すぐに捨てたりするようなものは最初から買わないようにしていた。当然、食事に関してもそうだ。
自分でお金を稼ぐようになった今も、その考え方は僕の奥深くに根付いている。目の前に置かれたホットサンドを口に入れていく。サクッとしたパンの食感とチーズのとろりとした食感が口に触る。味はしない。が、それでも口に運んだ。
食事が終わって、伝票をとろうとすると紅葉がそれを凄い速さで取り上げる。
「義兄さん、今日はスーツのお詫びとしてここの代金は払わせてください」
「紅葉、そんなことは気にするな。君も大学生で何かとお金がいるだろう。ここは僕に払わせてくれ」
その後、問答が続いたが結局上手いこと言いくるめられ、紅葉が支払いをすることになった。昔から、口論になったら、勝てた試しがない。自分でも嫌になる。
紅葉と別れて家に帰りつくと、食事を口に入れたせいか、人疲れのせいかは分からないが急な眠気に襲われ、そのまま眠りについた。