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火乃絵のロクジュウゴ航海日誌〈scrap log〉 第二百廿二日 8/8

共感性羞恥とナルシズムについて、そうとおくはない未来にここnoteでも書こうとおもう。すでにいくつかの動画でも触れているので下の挙げておく、

さいきんすでに日課と化しているのは、午すぎに眼を覚まし(いつも朝に寝る、)押入のなかでひとしきり泣くこと、赤子だって生まれてすぐ泣くのだから、しぜんのことともおもう。——

今日は夕方に市村がサンオウに来た、久々にみんなでご飯を食べに行って、勝島運河でダベった。火乃絵は横になって水の中のうちゅうを渡っていた、市村は「水の中の方がげんじつの写真」を撮ろうとしていたがひのえはもうその中だった、もう星の方がちかいので人がなんだか変だった、生き物、男の子? 隣に坐っていてふたりが何億年とおくにいる気がした、忌野清志郎の〝理解者〟という歌声がきこえていた、

まぼろし
               RCサクセション

ぼくの理解者は 行ってしまった 
もう ずいぶんまえの 忘れそうな事さ 
あとは だれも わかってはくれない 
ずいぶん ずいぶん ずいぶん長い間 
ひとりにされています

だれか友達を あたえて下さい 
何度も 裏切られたり 失望させられたままのぼくに 
そしたら ぼくの 部屋にいっしょに連れて帰る
幾晩も 幾晩も 幾晩もの間 
枕を濡らしました

ぼくの心は 傷つきやすいのさ 
ぼくは 裸足で 歩いて部屋に戻る 
だから 早く 近くに来て下さい 
いつだって いつだって 昼も夜もわからず 
まぼろしに追われています

つじと市村が運河のほとりで安倍元首相の令和を発表する動画を見ていた、どんな話の流れでそれをみていたかわからない、ただ〝万葉集〟ということばがきこえて、火乃絵はあの萬葉宙宇に、天の川のうた、舟を漕いでいると海のおもてにうつった Milky Way がまるでそのもののように感じられ、海の上ではなく宇宙の水の中を、運航しているような、天球と海とがひとつとなるような万葉びとのバーチャ・リアリティが、暗いヘドロ臭い運河にもたしかにげんしゅつしていて、すぐそばに横たわっているのであった。 ——

火乃絵は生きているひとたちとうまく関わることができない、離れているときは相手を死者とし、ちかくにいるときはじぶんを幽霊にする。こういうことは幼少期に家族とのかんけいにおいて身に撞くのだろう、これを戒めてやらないあとはかならずカラダを壊す、そういう風にできている。——

こんな人間に代理とはいえブンジツのリーダーがつとまるはずがない、ひのえは友達でも恋人でも家族でも、生身のにんげんがコワくて仕方ない、ただみんなが子供であるときだけふっと心の通じあえるときだけ、からだのにおいのするときだけ、夜のようになつかしくなる、月がわたしたちを見守っているときだけ。——

市村にひのえのSNSは自撮りが多くて見れない、どうせたれも見てねえよ、といわれて、「火乃絵のことは放っておいて、」…まだ星ジカンの中にいた、男たちにはわからないんだとおもう、自撮りをしなくては世の中に留まっていられない女子の気持が、いわしたいようにいわしておけばいい、ほんとうならばイマしかない火乃絵の一瞬いっしゅんを遁がすことなく撮ってもらいたいのだけれど、だれも撮ってはくれないから仕方なく自分で撮っているのだ、宇宙の孔はそうやってみづから塞いでいくしかない、五月から八月はとくにその孔のひろがりやすい空の近さ青さで、じぶんで見返してみても異常な数の自画像がある。——

いつか、そうあれは火乃絵が久々に髪を染めたよる、そのトキだけのひのえをもっと撮ってほしくて、つじに八ツ当りのようなものをしてしまったことがある、あそこで活動初期からのふたりの関係は完全に毀れたといっていい、時計の巻き戻しはきかない、それいらい火乃絵は被写体欲求をなるたけおさえるため自撮りをすることを覚えた(いちめんセックスにたいする自慰のようなもの)、そして気づけばひのえは自撮りの好きなやつみたいになっているけれど、ホンネではロクジュウゴをはじめたさいしょのときのように辻にたくさん撮ってもらいたい、けれど写真は被写体への愛があってこそのもので、それを失くさせたのも火乃絵だし、無理をいってもただ悪くするだけだ。償いはあっても権利はない、

ひのえはじぶんではみんなを撮るのが好きでけっこう撮っているつもりだが、いつからか自分を撮ってもらえないことでさみしくなるふうになって来た、自撮りをするたびに肋骨のすき間の青いぷらっと・ほうむに風の抜けるような音がひびく、こうなってからの火乃絵はいよいよ周囲とのキレツが埋まらなくなってきたような気がする、——

I love you even though you don't love me.〟がきいてあきれる——いうのはかんたんだがじったいはこんなんだ、けれど〝自分を愛するように、みんなを愛せ〟だから、火乃絵はじぶんを撮るようにしかみんなを撮れない、自撮りは化粧をぬぐいきれない、ほんとうの火乃絵を、いやみんなの眼に映るそのままのヒノエをひのえは見たいのだが…。ガマンするしかない、しぜんの火乃絵を摑まえるには風景にムイシキをとかし込むしかない、だからもう自撮りはやめて風景やみんなを撮ろう、——でもちがう、自撮りはサービスでもあるのだ、両方やってゆけばよい、おもうがままに任せるがよい。——

自己慰安——文章もまたそこからはじまる、航海日誌のくせ、内向きになりがちのさいきんであるが、たしかな日々の写しとしてはそれもまちがってはいない、これがいまの火乃絵の在り様だ、〝愛する!〟ということに近道はない、と、そうじぶんを励ましたい。——

いまもうしばらく、〝放っておいてください。〟——

文月朔日

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