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火乃絵のロクジュウゴ航海日誌〈scrap log〉 第二百十日 7/27

They walked along by the old canal
A little confused, I remember well
——「Simple Twist of Fate」Bob Dylan

昨年末、12月30日の文実発足から二百十日、〝きょうはロクジュウゴに嵐がやって来る!〟というフナキ(火乃絵)のいつものアテにならない予言も外れ、サンオウには今日も人の来るけはいはない。降ったり霽れたりの天模様とおなじく、ひのえの心もどこかおちつかない。——

つじとの生活じかんは深夜の数時間しかかさならないが、これはこれで毎週一回のラジオ「スタ会」での近況報告がたのしみである。

おそらく明け方に寝入ったであろう辻を見おくり、おもい幻想もちのカラダをひきずりなんとか室を抜け出で、カメラを回しながら勝島運河をあるく、あいかわらずの泥炭のにおい、というと火乃絵はすでにすこしばかりの幻想領域に這入りつつあるらしい…ひと月ほどまえ、この運河沿いで友人の武田さんと電話で話した。一週間くらいまえ、夕方すぎに再度着信があって、あれからずっと心配していた、と息もたえだえ告げられた。寝耳に水だった、——

くわしくは話さぬつもりだが、つまり、火乃絵が〝ちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこ〟にいるんじゃないかということだった。「あのあと宮沢賢治の『宗教風の恋』を読んで、こわくなって…おもいだせる? ちゃんと。」

「宗教風の恋」
                宮沢賢治

がさがさした稲もやさしい油緑に熟し
西ならあんな暗い立派な霧でいつぱい
草穂はいちめん風で波立つてゐるのに
可哀さうなおまへの弱いあたまは
くらくらするまで青く乱れ
いまに太田武か誰かのやうに
眼のふちもぐちやぐちやになつてしまふ
ほんたうにそんな偏つて尖つたこころの動きかたのくせ
なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
燃えて暗いやましいものをつかまへるか
信仰でしか得られないものを
なぜ人間の中で捕へようとするか
風はどうどう空で鳴つてるし
東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて
いまでもまいにち遁げて来るのに
どうしておまへはそんな医やされる筈のないかなしみを
わざとあかるいそらからとるか
いまはもうさうしてゐるときでない
けれども悪いからいゝとか云ふのではない
あんまりおまへがひどからうとおもふので
みかねてわたしはいつてゐるのだ
さあなみだをふいてきちんとたて
もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
おれたちのやうな初心のものに
居られる場処では決してない

            (一九二三、九、十六)

火乃絵はひと月まえの電話のときも、きょう迄も、たぶん元気だったとおもう。そして賢治さんのいう〝空間が二重になつてゐるとこ〟も、火乃絵たちは肯定してゆかなければならない時代に来ている、そんなことを告げた。いろいろ話して通話は止んだ。なにかしゃくぜんとしないものがのこった、武田さんのこともなんとなく心配であった。——

火乃絵はたれかにしんみになって心配されたことがあまりない。東北岩手の地にあって、武田さんが遠くから火乃絵を気遣っていてくれたということは素直にうれしいことだ、けれどもそのうれしいをどうしたらいいかわからなかった。迷子になった火乃絵のうれしさは、いつもの景色が急によそよそしくなり、知らない街にいるような気がした。ひのえは迷子になると母親をもとめて泣く子ではなかった、見知らぬ土地でぐんぐんどこかへ行ってしまう子であった、そのうちにどこかの林の径のようなところに出た、そこにいたのは武田さんの視た火乃絵だった、もうそのときにはうれしさはかなしくなって林の中のその人の裡(うち)に納まっていた——

「いろいろわかったよ、」「わかった?」「たぶんふつうだったら、武田さんの考えすぎってことになるんだとおもうけど、」「でしょう…なんか自信なくなってきた…、」「火乃絵も考えすぎじゃないかとおもってた、こっちにいる火乃絵がほんとうの火乃絵だって。でも、武田さんのみた火乃絵のことを想うと、そっちの方がほんとうなんじゃないかって、だんだんそういう気がしてきた。だとすると、そうなってるこっちの火乃絵にしてもやっぱり二重の空間に…」「そうだよ、」「でもね、そうするとやっぱりそれを視た武田さんというのも…その、……二重の空間みたとこに……いた…ってことになっちゃう、」「え?」「なっちゃう…けど、火乃絵はそれが悪いともおもわない。」「そっかあ…賢治さんも、〝悪いとかいゝとか云ふのではない〟って書いてるけど…」「うん…、そういうのって体質みたいなもので、仕方なくて、だし、火乃絵はそういう力しか、世の中よくしたりできないんだとも想ってる……たとい両刃の剣のようなものでも…」——

そのあとの会話はあまり覚えていない。とにかく火乃絵はどこか林の径のようなところで、武田さん、というか幻想の火乃絵じしんと出遇ってしまった…賢治さんはそこを〝おれたちのやうな初心のものに/居られる場処では決してない〟というけれど、もしそうであって火乃絵たちがそこを引き返さなくてはいけないのだとしたら、およそ文学と名のつくものは、その本来性を失くすことになる、たしか中也さんが(おそらく火乃絵のきおくちがい)〝騙されやすい心〟といったような、世の中生きていくには損しかないこの感じ方を。それではだめなのだ、

「たぶんこの空間には、よくない這入り方とそうでない居り方があって、火乃絵は悪い風には這入ってないつもり…わからない、でも体質な以上、『あっ、また這入ってんな、』とか、そういうふうでいいんじゃないのかな…」

思い出したそのあとの会話はこういうことだった。つまり、そういうのを表現の場に押し留めるか、そうしないか。これについて、武田さんの方がぜったいに正しい。武田さんにとって短歌なのが、火乃絵にとっては文化祭だった。つまり詩を書く人として、文学にたずさわる身として、火乃絵ははなから落第者なのだ。——

二人ともここ一年、とてつもなく危うい谷を過ぎてここに来た。幻想をどこに忍耐させるか、武田さんの答は一流だ。火乃絵は二流、つまり文学のスタートラインに立っていない。それをよくわかったうえで、それでも文学にたいし、火乃絵は文化祭をあきらめることができなかった。遠まわりになるとわかっても、それをやらずに諦めたのでは噓になる。

 ——彼女は春で、火乃絵は修羅なのだ。

     People tell me it’s a sin
     To know and feel too much within
     I still believe she was my twin, 
       but I lost the ring
     She was born in spring, 
                        but I was born to late
     Blame it on a simple twist of fate

「Simple Twist of Fate」Bob Dylan 

          ✳︎

水無月十八日

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