火乃絵のロクジュウゴ航海日誌〈scrap log〉 第二百廿日 8/6
去年の12月30日から火乃絵のやっていることをかんたんにいうと、かつての部活のチームメイトに、25にもなって「もういちど甲子園を目指そう、ないならつくっちゃえばいい!」と呼びかけるようなものだ。もちろん馬鹿げている、夢というものがすべからくそうであるように。——
夢とはふつう個人で完結さすべきものである。しいていうなら「君と結婚したい」とか、他者を含むもので一般的なのはそれくらいだ。それ以外は、目標や目的にすぎない。例外は、学校の塀のなか、あるいはバーチャルにしかない。企業はなにがあったって、利益が優先だ。人の夢はただ、組織によって利用されてしまう。——つまり、お金に換算される。
「君なしでは生きれない」。——恋愛の場面において、自らの夢を個体の外に出すことがゆるされるのは、結婚という制度があるからだ、いざとなれば法の手続きによって解消することができる、金の切れ目が縁の切れ目というわけだ、
けれどそのとき、あの恋の台詞はどうなる。愛の誓いは? ——ああ、あのときは夢を見ていたのさ、それが醒めただけだ。どんな恋人どうしでも、付き合いはじめというのはそういうものだろ? …ぼくだけじゃない」。
かくして個の枠外に出た夢はほとんどその責任が果たされることはない。物語やドラマはその後を描かない。いいところで幕を下ろす、そこから先はわたしたちのと同じだから。そのために悲劇はある、力(ちから)によって恋の翼のへし折られたときが恋人たちの死のときだ。こういうふうにしか人は恋愛を美とすることができない。——
人はいつでも夢のものを夢に返してきた。——ゆめ見たことの責任というものはこの世に存在しない。「はじめから夢にすぎなかったのだから」。
そうしていつしかひとは夢を見なくなる、たれも噓つきにはなりたくないから、無責任とはいわれたくないから。しかし、それでもカラダは夢を見続けている、ただその声なき声をきかないことに、わたしたちが慣れてしまうだけだ。「わたし眠っても夢を見たことがありません、」——
きっかけは何でもいい、せいかつから夢を締め出すことのできたにんげんが、悪夢におかされるのは。生きていくには薬がいる。つまるところ夢を見ないで済むには忌忌しい肉体というやつを滅ぼしてやるしかない、——「だが、死んで夢など見たらどうしようか?」
島国に地震のなくなる日は来ない、たとい目に見えなくとも地殻は変動している、地下奥底のマントルはいまでも蠢いている、人は個体のうちから夢を排せきすることはできない、夢は肉体のマントルなのだ、それがなければ地球も鉄の塊にすぎない、惑星にだって気分のムラはある、それがいのち。——富士山だって片想いの一つやふたつする。
火乃絵は8年抑え込んだけっか、文化祭という夢の大噴火をおこした。突然の恋をたれも止めることができないように、この夢を止めることはできない——と、いいたいところだが、そんなのかんたんだ。無視をきめ込んでひのえの生活が破綻するのを待てばよい、いかなる噴火もいつかは収まる、火乃絵はそして見てくれのわるい死火山となる。皮肉でも自虐でもない、それが自然だからだ。——
だから信じられるのは、個の枠に忍耐する文学という夢だけだ、たとえば火乃絵の賢治さんへの恋が冷めないように。その恋は火乃絵の生き方を規定する——するとどういうワケだか文化祭をせずにはいられない、ひのえは賢治さんにブンジツをとおし出逢った。
——それをおまえは書けばいいではないか、おまえの夢みる文化祭というやつを白紙の上に実現すればいい、紙がなかったら光でできたパイプオルガンを弾けばいい、それでは駄目なのか、そこから逸脱するということは宮沢賢治をはじめおまえの出遇ったすべての恋する文学者たちを裏切ることだ、
アタマではわかっている、けれどそれができない、火乃絵は底が抜けたバカなのだ、こういうや奴は痛い目をみるしかない、ただそれだけのこと。ブンジツは文学より旧い火乃絵のふぁむ・ふぁたーるなのだ。——ここを通らねばすべてが噓になる地点、それが文学の人とはちがっている、二度目の恋は火乃絵の片想い、永久にそれは変わらない。
…初恋はいまでも謎のままだ…
かくして、火乃絵は今日もここ立会川はサンオウで押入の向うに遙か文化祭を夢みつつ、仲間のやって来る日を、「おかえり」を言うときを、その瞬間を心待ちにしている。———
*
死火山
白石火乃絵
死火山となっても
花を咲かす
たぎりたつ血は
いまは水となり
その地下を流れる
夜には月の恋の従者となり
太陽とは無二の親友となる
噴火によって荒廃した
大地に
いま その水の沁みとおる ——
水無月廿八日