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火乃絵のロクジュウゴ航海日誌〈scrap log〉 第二百十二日 7/29
はじめたばかりというのもあって、火乃絵のカラダはこれに完全に転移している。ゾッコンというか、かかりきりというか、いやむしろひのえの方でよりすがっている。——
何を書くか、とか、どういう風に、とかそういったことよりこの航海日誌においては〝一日も空けないこと〟がなににもまして意味をもつ、そうとはいわないでもたとい空く日が出てきてもやめないこと——火乃絵にはそれがなによりむつかしい、
どうしても駄目という日がある、たとえばそれが今日なのだが、今回の火乃絵の決意は固い。ときには藁にでもすがるように、ときにはイヤイヤでも、未ざらし紙のこの日誌を肌から離さないこと。そういうことでしかひのえというぐぶつはものになるものではない、それだけははっきりわかっている。——
きょうは何をしようとしても、火乃絵のカラダがいやいやをいって、かといって寝ようとしてもやすらってくれない。書く、読む、観る、話す、聴く——なにをとっても居心地が悪くからだが這入っていかない。何本煙草を喫ってもだめで、火乃絵のしたことといえばお菓子のラムネをイッキしてみたり……それくらいのものだ、もちろん顔を洗ったりシャワーを浴びたりするともできない、何もしたくないのにカラダは渇きつづけてゆく、あげくのはてにひさかたぶりにかたくなにブンジツに加わろうとしない因縁を原田にふっかけていた…そんなつもりはなかったのだけれど、感情がいうことをきかなかった。———
一方的に通話をブチ切ったあとしばらくして世話係の若林から電話が掛かってきた、はらだのほうで見かねて alternative をとったのだ。そのときはもう運河に出てカラダを冷ましていた。原田とは対照的に、若林とはそんなふもーな感情のもつれあいが生じたことがない、——さすがはいっしょに部門をやっただけのことはあって、いざというときかならずやしんみになってくれるという安心感はほかにない、どこかフモールなかんじで、しかも、若林においてはほとんどたれにたいしてそうなのだ、だから、きほんてきに向うの人格に火乃絵がほうようされるという形になるし、若林を怒らせているときはおおかた火乃絵のほうにヒがある、
とにかく、原田とのもつれっ話はかならずやどこか、いや、話が出た以上この日誌で、語られなくてはならないし解消したくもある。へんな話、かつての蜜月のようなものに再びめぐり合いたくもある。そしてもしかするとそれは文化祭の成功よりもむずかしいかもしれない…
こういうクサレ縁にたいする適切は処置は、関係しないということで火乃絵と原田のばあいゆくとこまでいってしまっているからあえてせずともじじつすでにそうなってはいるのだが、今回火乃絵はNevermind をかかげているので何があろうとタダでは切ってあげない。向うが論理で出るからには、火乃絵は感情ででる。こうなったら、すれちがうしかない。とはいえ、火乃絵の感情はねゔぁ・まいんどだから、向うの土俵には死んでも出てやらない。するとは論理は論理で、ますます意固地になる。まるで破局につきすすむつがいのようなものだ、しかし火乃絵という女は地獄の涯までも男を追いかける狂ったアニマである。この腐れ縁を下地にひのえは林芙美子さんの『浮雲』を読んでいたのかなぁ…せめて原田にもランボォの地獄の夫とまでいわず、富岡くらいのきがいは見せてほしいものである。——
はたから見ていてわかるように、アタマではわかっていながら火乃絵は関係の中に明らかなてんいを惹き起こしている。だが十代のマインドとして、この転移力もまた弾力性へのひやくを担うものであるから、それこそ頭ごなしに否定しない。にしても今回、いやここ数年のはらだとのケンカはすでに十代のときのようなものではなく、あまりに不毛だ。——もはや絆はなくなってしまったのだろうか、
原田とのきずなは文実いぜんにパンクロックであった。つまりこのケンカはよくある音楽性のちがいというのにほかならない…いやより不幸なのは、そしてツマラナイのは、その音楽さえも共通しないということである、不協和音もその置き方によって美となる可能性はあるが、それすらも鳴っていない、音を出すためのブンジツという場はつくってあるのに…
原田のばあいよくわからないが、すくなくとも火乃絵にかんしてはつぎこの Nevermind を譲ったとき、それが命日だ、つまり歩み寄る気などいっさいナイ。おまえは、その態度を改めないかぎりたれもひのえのところに寄っては来ない、という…けれど、げんに辻はやって来て留まってくれている。だからこんどの火乃絵はひとあじどころかふたあじもさんあじもちがう。その辻にさえ見捨てられる日が来たらそのときこそ「おれがまちがっていた」といいもしよう。だがそうなってはいない以上、原田、今回ばかりはおまえの敗けだ。———
とはいえ、ヘンリー・ミラー(辻が好きな)にいわれなくとも〝彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終わるだけ〟なことくらいよくわかっている。火乃絵のすることには敗北のミライしか待っていない。だがらこそ火乃絵は敗けるとこからはじめた。非-知てきに、戦争てきに、醜くく生きよう。——ああなんということか、ひとびとはいまチテキニ、ヘイワテキニ、ウツクシクばかり生きている! 原田よ、これがおまえの望んだセカイなのか、おまえのなかの真夜中少年突撃団はどこへいった、——たしかにアレクサンドロス大王も、ジャンヌも、孔子も、ソクラテスも、イエスも、マキァヴェッリも、仏陀も、荘子も、エピクロスも、ダンテも、シェイクスピアも、エミリーも、キルケゴールも、カフカも、ランボォも、ゴッホさんも、キーツも、マラルメも、リルケも、ドストエフスキイも、尹東柱さんも、芭蕉さんも、賢治さんも、ヴェイユも、マルクスも、世阿弥さんも、空海も、紫式部も、一葉さんも、透谷も、延子も、晶子も、朔太郎さんも、ジョン・レノンも、啄木も、中也さんも、清志郎さんも、サリンジャーも、梶井も、漱石も、埴谷さんも、吉本さんも、その他ひのえの知るかぎりたれひとりとして大衆の意識改革に成功したものはいない、けれどもあの日のパンクロックはたしかにおれたちそれぞれのせかいをひっくり返してくれた、そう、あのときたしかに世界は変わったのだ、そのときおれたちは大衆の中のひとりではなかったか、それはおれたちが敗けを認めた瞬間だった、——尾崎豊ではなかったのだ、!
おまえはいまでもおまえのなかにパンクロックは鳴り止んでいないという、火乃絵の耳が悪いのか、おれにはどうしてもそのくちびるからかの音がきこえてこないのだ、ましてやあの夜の風も。今日のひのえのカラダみたいにつんぼをきめ込んでいるのか、そういうとき、まちがっているのはつねにアタマや私のほうであって、からだはぜったいにまちがわない、ケモノたちが電燈と月のあかりを決してとりちがえないように。——そういういみで、火乃絵にはいまも、原田、おまえのなかで鳴り止まないパンクロックがきこえる。それがおまえの聴いている音楽だとはどうしてもおもわれないのだ、いまのおまえは耳がよすぎる、——ああこんな反語なぞはやくスクラップにしてやりたい!
おまえほどの音痴にはかつてもいまもこれからもひのえは出遇うことはないだろう。ただ音痴はオンチでも(しかも筋金入りの、)十代のおれたちでもききのがしてしまうかもしれないほどの風のおとをどこかつかまえることのできるおまえだったから、おれはおまえのバックでギターを弾きたいとおもった、主人公キャラの火乃絵がだ。いつからかおまえは音痴をかくす(それでも筒抜けだが、)すべは身につけたが、かんじんの夜の風にはつんぼになった——そんな音痴など今日のせかいにはひとの数だけいる——おまえはそれを火乃絵のかっての決めつけだという、けれどもやっぱりそんなことにはきく耳をもたないのが丙のとりえだ、そのかわりおまえがまたあの鼻歌をもういちど夜の風にのせることがあったら、なにがあってもききのがしはしない、原田よ、ただひとりのおまえにかえってこい、おお、このままだといつかほんとうに火乃絵は詩人になってしまう! あの日の音楽はたぶん歌っているおまえにさえきこえてなかったんだろう、ボブ・ディランだってあんな風の Blowin’ in the Wind をきかせてくれたことはない、あれをきくまえの耳に戻してくれたら、火乃絵もいまのおまえのいうことに、少しは耳を貸すことができたであろうに………………………
いらい火乃絵はディランの歌の中で、「風に吹かれて」だけはどうしても好きになれない。そこに風は吹いているか?
水無月廿日