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『図書館の大魔術師』という作品の感想を書きたい
結論:読書に没頭したことがある人はたぶんハマる
2021/12/25現在、図書館の大魔術師5巻まで一気に読んだ。
感想を共有したくて検索しても、AmazonやらComicdaysの販売ページばかり上位表示される。
無いなら自分で書けばいい!っーつわけで書くことにしましたとさ。
めっちゃおもろくて、示唆と考察に富むマンガなのよね。ついつい読み直して考えちゃったり、共感したりと心踊る。
Kindleで読んでたんだけど、続きが気になりすぎてすぐポチった。そんで、5巻までしか販売されてないと知ったときはショックだった。
つづきが気になるのにー!って。
マンガの表紙に「原作」表記があったから、「小説家になろう」か「ハーメルン」あたりに原作あるのかな?とおもいきや……
無いのである、原作。
おやおや、非公開にでもなったか?と思って調べてみたらどうやらマジで原作がない。
よくあるweb小説→マンガという流れを経ておらず、マンガしかないのである。
5巻まで読みきった私はここで第2のショック。さらに調べてcomicdaysで掲載されていることを知ると、すぐに課金して(マンガよりはるかに割高なのに)つづきを読み貪った。
結果として課金して後悔はない。読み終わってもすぐに「初めから読む」を繰り返した。
たぶん4週くらいして落ち着いた。それほどまでに世界観にハマっていた。
世界観自体はファンタジーなんだけど、その表現がメタ的で物語を読み進めているのだという感覚に浸らせてくれる。(特に1巻)
いや、物語をよみ進めてはいるんだけど「物語を読み進めることを読み進める」みたいな感じ。
物語が進みます、それをリアルの私たちが読みます、じゃなくて、物語が進行するのを誰かが編纂して書にしたのを私たちが読む、みたいな構図になってんのよね。
物語と読み手である私との間に、もうひとりの存在がいて、その人が書いた文章を(マンガだから絵で表現されてるけど)読んでいる、という感じ。
伝わってるかすごく心配だけど、1巻の表紙をみるとさらに納得できる。
表紙には
原作 「風のカフナ」
著者 ソフィ=シェイム
訳者 濱田泰斗
画 泉光
と書かれてる。
この内、実在がはっきりと確認できるのは泉光さんだけ。濱田さんは検索してもでてこないけど、泉光さんの協力者なのかな?
ストーリーを2人で考えてるとかね。
ま、わからんけど。
話を戻して……
著者ソフィは作中に出てくる登場人物で、彼女が後に書いたとされる「風のカフナ」という本を泉光さんがマンガにして私がそれを読んでいるという構図になってんのよね。
ちょっとした仕掛けなんだけど、細かいところでこういう世界観をつくってるのがすごいなと思う。
いつものように小説を読むのとはまた違って、ただ物語をよみ進めているのではないってところがおもしろい。
さらにおもしろいのは作中でもシオが主人公ですよーという表現をめちゃめちゃしているのに、原作の「風のカフナ」もマンガのタイトル「図書館の大魔術師」もシオを指していないってところなんだよね。
風のカフナはおそらくセドナで
図書館の大魔術師はコマコさんかな?
5巻までではそうだけど2代目になったらその人を指すよね。
マンガにしてはすごい描きこまれているし色々考察できる作品だなって思うから
この原作名とかこのマンガのタイトルとかにもなにか意味があるのかな?って考えてしまうね。
Hero's Journeyの観点からみるとさらにおもしろい
世界中の神話を調べた人が、物語には共通点があることに気づいてまとめたものをHero's journey(神話の法則)っていうんだけど
図書館の大魔術師もこの神話の法則をつかって物語が進んでるのよね。
ざっくりHero's journeyを紹介すると、ありふれた日常を過ごす主人公が、あるきっかけで旅を始めて、メンター(師匠)と出会い、試練を乗り越え、最大の敵を倒して、宝を獲得して日常に帰るっていう流れ。
説明ページによっては12のステップか8のステップかわかれてたりするけど、大筋は上に書いた通り。
1巻では、耳長のこどもがいじめられてたり差別を受けている生活がはじめに描かれる。『ありふれた日常』
耳長の子が住む村に、司書(カフナ)一行が魔術書の回収のために訪れる。
そのうちのセドナとこどもは出会うことになる。『旅のはじまり』
こどもはセドナから本を貸してもらうことになるが『メンターとの出会い』村の図書館の館長に盗んだと勘違いされ本を奪われてしまう。『試練』
落胆するこどもだったけど、図書館から火の手が上がっていることに気づき(魔術書の暴走が原因だった)、仲間(犬)の力を借りて本を回収しに行く。『最大の敵』
館長を助け、見事セドナから借りた本を回収できたが外に出れずもはやこれまで…意識を失いかける。
そこにセドナ一行が助けに来てくれて、無事魔術書の回収に成功する。
セドナ達は目的を達成したので村から去るが、耳長のこどもが去り際に本を返しに会いに行って、つらい日常が嫌でここから連れ出してくれる主人公は現れるかとセドナに聞く。
セドナはそんな都合のいい主人公はいない、自分自身が主人公そのものだ、とこどもにつたえる。『宝の獲得』
そんな主人公の名前を私はまだ聞いていない、とこどもにセドナが聞く。
こどもは自分はシオ=フミスだと答え、日常に戻っていく。『帰還』
本が好きだけど、耳長で差別をうけ貧民街に住んでいるから図書館に入れずつらい日常を過ごしてる子供が、師となる人と出会い、成長し、試練を乗り越え、主人公=シオという宝を持ち帰る、っていう構図になってる。
そして、1巻の最後は司書になるための試験を受けにいきます!と新たな旅立ちが始まって終わる。
Hero's journeyを知ってると「まんまじゃん!」って思うんだけどしっかりおもしろいから本当にすごい。
特にきにいってるポイントが3つあって
1つめは、宝が主人公っていうところ。主人公という宝を手にして物語が進みます!っていう結末になってるのね。
いままで読書が苦ではないくらい本読んできたけど、主人公が宝っていう構図はなかなか見ないからびっくりした。
その部分のマンガの表現もすごい。見開きで図書館の大魔術師!って出して物語がはじまるぜ!ってところをあらわしてる。
2つめは序盤のこどもの境遇を描いているシーン。
いじめられてたり、良いことなかったり、似たような日常の繰り返しで本に書かれてる冒険譚にあこがれる。この日常から抜け出せないかなぁ…って描写されてるのね。
このシーン、現代人はみんな似たようなこと経験してるんじゃないかなって思う。
かくいう私も、似たような1日を繰り返していてなにかないかな、抜け出せるようなきっかけないかなって考えたことがある。
神話の法則から考えると「ありふれた日常」を描いてるだけなんだけど、現代人ににてる境遇をえがくことで耳長のこどもに感情移入しやすくなってるのなぁって感じた。自分を投影しちゃうんだよね。
すきなトコ3つめはこれまた序盤の耳長こどもが、本に没入するところを描いてるシーン。
もうね、めちゃくちゃ「わかる!!!!」みたいになった。
一回はまっちゃうと時間とか空腹とか忘れるし、やらなきゃいけないことあると最悪だし、それでも読み続けることをやめられない。
そういうところを描いてくれて、「わかる!」ってなっちゃったからたぶんこの物語にはまっちゃったんだと思う。
上に書いた通り、ストーリーが面白いってのもあるけどね。
あと、泉光さんは絵が上手で精緻だ。マンガなのにたまに絵画ぶつけられてるみたいな情報量の多い絵を描いてるからそこもいい。
このマンガ買って後悔しないのはたぶんそういうところが影響してるんだろうなって思う。
ただ消費して終わる物語じゃない。ん?これってどういうことなんだっけ?って考察したり読み直したり、沼にはまっちゃう感じがする。
1回読んだらいいかなってマンガとは一線をかくすね。
結論2:もしまだ「図書館の大魔術師」を読んだことなかったら読んでみて
人生で「記憶なくしてもう1回読みたい作品」が何個かあるんだけど、「図書館の大魔術師」はそれにあたるマンガだ。
十二国記とかラスアス(これはゲームだけど)とか記憶なくしてもう1回味わいてぇって思う作品だから
ここまでこの文章よんでくれたあなたなら、たぶん気に入るとおもうのよね。
というわけでよんでみてね。