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水の流れが気になる人と、置かれたボトルが気になる人
「この連鎖を始めたやつは、一体誰なんだ...」
そう思う時、ないだろうか。
たとえば自動販売機の横にあるゴミ箱がいっぱいで、そのゴミ箱の傍らの地面にそっと空き缶を最初に置いたやつ。街のまっさらなポールにステッカーを最初に貼ったやつ。傘立てがあるのに、もう一方の端に最初に傘を立てかけたやつ。
その1つがない時はなんとなく「やってはいけない」というような均衡が保たれていたのに、誰か1人が始めたそれによって、本来そうではなかったものや場所が「そういう場所」として許されるようになっていくあの連鎖。
「みんな」の力は偉大だ。1人だと躊躇われることも、そこにすでに先駆者がいたり、何人かの後続がいるとじゃあ大丈夫かな、なんて思ったりする集団心理。
街中で見る分には「あーあー」くらいにしか思わないが、それと似たようなものをオフィスや自分の身近なところで見たりするとちょっとげんなりする時もある。
とってもとっても些細なことなのだが、些細だからこそ「いや、その時にちょっとやればええがな」というようなだらしのなさが垣間見えるのだ。
そのような忌まわしき文化は、大体誰か1人の怠慢から始まることが多い。
うちのオフィスではペットボトルの一時放置がよく起こる。
来客があると、冬場は急須でお茶を入れるのだが暑い季節の時は冷蔵庫に入っている来客用のペットボトルのお茶を使用する。
しかし、給湯室には燃えるゴミ箱しかなくペットボトルや缶などの資源ごみは少し離れた場所にまとまっているのだ。
そこで冷蔵庫のお茶を使い切って、ペットボトルが空いた時にどうなるか。「お茶を出してから捨てに行こう」と食器棚の足元などにそっと置いておく人が現れるのだ。
自分の家などでやる分には全く構わないと思う。しかし、それが不特定多数の人が使う場所になると、そのちょっとの怠慢が雑然さを生む気がしている。で、だいたいよく気がつく人が見かねていつの間にか片付けてくれたりして、その怠慢たちはなかったことにされるのだ。
このサイクルは非常によろしくないと思う。
弊社は人数も少ないため、基本的に来客対応者以外の人が誰ともなくフォローするような感じでお茶を出すのだが、時には手が空いているのが来客対応する本人しかいないという場合もある。
そういう時は仕方がないと思う。お客さんを待たせるわけにはいかないし、置いておいて来客対応後にやればいい。
私がおいおーいと思うのは、ふいっとそこにペットボトルを置いて、ふぅやれやれとその後急ぎの用事もないのに席についたりする人である。なぜ今捨てんのだと思ってしまうし、いつの間にか2個目のペットボトルが傍にそっと寄り添っていたりすると「ほらー!後続ができてしまったではないか」と思う。
そう思うなら自分が片付ければ?という話だし、自分の手が空いている時は誰が置いたかわからない空のペットボトルを捨てに行ったりもするのだが、なんだかなぁと思うことはある。
でもそんなことをチクチク言うのもはばかられる。ペットボトルの1つや2つで、それこそ自分の家じゃないのだからモヤモヤしても仕方がないじゃないか。来客が多い日もあるし、確かにちまちま捨てに行くよりも2,3本まとめて捨てた方が効率もいい...かもね?
そんな感じで、自分の気持ちをおさめていたのだが。
先日、私は新たな「起きっぱなし」を発見してしまった。
それはパイプクリーナー的な排水溝に流して配管を綺麗にする液体の空きボトル。
...おいおいおい、なに君はお茶のペットボトルみたいな顔してそこに鎮座しているのだ。確かに素材はそうかもしれんがお前はそんなにしょっちゅう使わんだろう。仲間なんて待ってたら数ヶ月後になるぞ?
っていうか、シンクの流れの悪さに気づいて直そうとしてくれるような人が、そのボトルは放置するというアンバランスさがなんとも解せないっ...!
自分もそこそこ怠慢だし、なんなら排水溝の流れの悪さなんて気づけていなかったのだが、やっぱり気になるポイントって人それぞれなんだなぁなんて思って、床に鎮座するパイプクリーナーを見ながらちょっと面白くなってしまった。
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