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「傷つきにくいあなたへ」という言葉は世の中にはない
私は自分のことを結構図太い方だと思っている。
長い間自分の中を巣食うような苦しみも、心を蝕むようなトラウマもない。
いや、厳密に言うと大なり小なりあるにはあるんだろう。それに永遠に囚われて苦しむのなんてもっと嫌だと思って、どうにかこうにか自分で消化したり納得したりしてきたのだ。
でも見る人から見れば「そうできるくらいの、その程度のものでしょ?」になるし「いや、目を逸らし続けているだけだ、だから苦しくないんだ」にもなるし「それはあなたが強いからだ、普通ならもっとつらいはずだ」になる。そんな風に言われてきた。
うん。そうか。きっとそういう見方もあるのだろうと思う。
そんな風に当たり障りのない反応をすると、かわされているように思うのかその議論を深めようとする人もいる。
私は「ずるい」という言葉があまり好きではない。冗談で「うわっずりー!」とか言うのは別。語感という意味ではなんなら好き。ずるいってちょっと可愛いよね。
可愛い方のずるいは一旦置いといて。
できれば「ずるい」という感情を誰かや何かに持たないように生きていきたいと思っている。
でも、さっきのような強い弱いとか、図太いか繊細かみたいな話をしていると、たまーに「ずるいよなぁ」と思ってしまう時がある。
何をずるいと思うのか。
それは、人を無意識で傷つける”傷つきやすい人”。
心のバランスが悪くなると、人はそのつもりがなくとも誰かを攻撃してしまったりする。その攻撃は、本人が望んでそうしているものではなく、その人の心の悲鳴だったり、今にも崩れてしまいそうな自分を、自分なりに精一杯守ったことによる副産物というか、二次災害みたいなものが多い。
しかしその刃は、もう捨て身でぶん回しているも同然なので、本人が思っているよりも鋭い。
いや、当の本人は思っているどころかその行動や放った言葉について何も覚えていないということも多い。だってそれくらい必死なのだ。誰かを傷つけようとして動いているわけじゃない。そんなことはわかっている。
だけど
だから
傷ついている人が無意識でつけた傷を、有意識下で「傷つかなかったよ、大丈夫」としている人がいる。
誰がそうしているのか。傷ついていない人、傷つきにくい人だ。
なぜそうするのか。
傷ついている人、傷つきやすい人が「誰かを傷つけてしまった」と知ったらさらに傷つくことを知っているからだ。
これはタブーのようなものだと思う。
弱いものいじめをするなとか、気づいた人がやりましょうとか、思いやりが大事とか、人は支え合って生きているとか。
そんな言葉のもと、傷つかない(ように生きている)人がひっそりと飲み込んでいる傷が世の中にはたくさんあると思っている。
そんなやり場のない気持ちが駆け巡った時、つい「ずるいよなぁ」なんて思ってしまうのだ。
そんなの飲み込んでないで思ったこと言えばいいじゃん!とか、辛いなら自分だって相手を傷つけたっていいじゃんと思う人もいるかもしれない。
おそらく、そうできる人はとっくにやっているだろう。それがひいては言い争いや妬み合い、恨み合いになっていると私は思う。
傷つきにくい人は、やられたらやり返したいとか、こっちもやればすっきりするなんて思っていない。人を傷つけたくないのだ。だって、人を傷つけると「傷つけてしまった」と自らが傷つくことを知っているから。
「俺だってつらい」とは思ってない。でも「俺はどうなってもいい」とも当然思ってない。
だからふとした時に「あーぁ、…ずりぃなぁ…」になる。
とっても人思いで、その人思いが故に損を喰らっている人を先日間近で見た時に、今まで自分がうっすらと感じていた気持ちが、その100倍の濃度で目の前に現れた気がして気がついた。
この人ほどではないけれど、私もどちらかというと傷つきにくい人なんだろうと。そして、だからこそ飲み込んでいることがあるかもしれないと。
そう思いながらも、やはり人は永遠に人と比べてしまうし、その中で自分がどんな人なのかと把握したりするんだなとも思った。
潰れないように、うまく生きなきゃなぁ。
美味しいご飯を食べよう。
ふかふかの布団でぐっすり寝よう。
唐突でお気楽な話だけれど、まずはそれからだ。
そんな些細なことで、割と乗り越えられるから。
そんな些細なことが、どれだけ大事か知っているから。
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