缶コーヒーばかり飲んでいた私へ #聞いてよ20歳
20歳の頃──5年前の自分へ文を贈る気持ちでパソコンの前に向かっています。
でも20歳のあなたにも、時間が許すのなら読んでほしい。
ぜんぜん変わっていない、私
私へ。なんて、照れくさいね。
相も変わらず意地を張るくせが抜けなくて、周りに対して気を張り詰めてしまって。
昔の私を前にしても自分の話題を出すのに躊躇う。
けれど読もうとしてくれたあなたのため、できる限りいまの心を伝えられるよう努力する。
20歳の頃だと、つまり大学2年生か。
あまり実感がないなあ。
というのも、いまの私の心持ちはちょうどあの頃のまま、そのままの気分だから。
振り返ると、あの頃から私は立ち止まっていたつもりはないんだけどね。
広がった外界をじわりじわり認識して、自分と世界の境界をなぞる作業をしていたんじゃないかな。ずーっと。
それにしたっていつの間にかずいぶん時間だけが過ぎていたものだ。
佇んでいる私の背後から、時代の風はびゅうびゅうと吹き空気は流れていたんだ。
あまりに力強い風に背中を押され、ようやく私は一歩歩みを進めた。
それでもやはり私は"あの頃の私"そのままだ。
のんびり屋だけど、心の中にせっかちな自己を飼っている。
何もかもYESで飲み込んでしまうくせに、嫌なことには意固地になる。
人は好きだけど、完全に一体にはなりたくない。
一人は自由だけど、寂しさにどうしようもなくなる夜もある。
取り巻く状況、かかわる人々や持ち歩くもの、居る場所だけが変わったんだと認知している。
缶コーヒーはもう飲んでいないよ
ふと思い出した。あの頃からひとつ、変わったこと。
缶コーヒーをほとんど飲まなくなった。
毎日のように飲んでいたから、いまも感覚を呼び起せる。
プルタブを開けると、漂うコーヒーの香り。うん、悪くないな。
缶を傾けて飲むと、ぐわっと広がる苦みというかえぐみ、鉄の味。ついでに口元から茶色い液が垂れてしまったり。
特につめた~い缶コーヒーはその味覚が強調されるようだった。
しかしながら、私にとってだいじなトリガーだった缶コーヒー。
一口飲み込むと、スーッとして、頭の中でパラパラと点在していたパーツがシュルシュルとまとまる感じ。
「よし、頑張るぞ」と自分自身を奮い立たせるアイテム。
まあ、おいしくはなかったかもしれないね。
早足で自販機に流れるように100円玉を投入、いつもの缶コーヒーを手に90分の講義へ。大学敷地の外の自販機は他より安価だったから、重宝していた。
あるいは最寄りの駅のホームの自販機。10分後の電車を待つ暇を持て余して。電車が来るまで飲みきれないかもしれなかったから、ボトル缶のジョージア ザ・プレミアムだったかな。
私の人生には永遠に苦い缶コーヒーが存在するんだろうなと感じていた。
けれどいつの日からか、その存在は甘いカフェオレや紅茶、ミネラルウォーターに代わっていった。
最後に缶コーヒーのえぐみを気合に変えたのはいつだったかな。
入社して、新入社員研修の時期までは確かに覚えがあるんだけどな。
働いている姿、わからなかったね
入社と言えば、てんやわんやでよくわからないうちに大学を卒業してしまったし、なんと仕事をしている。
あれだけ得体のしれなくて、胸にはびこるイヤなもやもやの素だった「仕事」。
20歳のあの頃から、自分が働いている姿を想像できなかったね。
普段は妄想たくましいのにね。
小ぎれいなオフィス。デスクでパソコンをカタカタ、カチカチ……。
それを印刷、上司に提出。ここ間違っているよ、今日中に直しといてね。
はい……。はあ、今日も残業か……。
ドラマで見た職場のシーンを思い描いてみても、その場所にいる自分はドラマに出演していた俳優にしかならなかった。
仕事をする場所に"私"が存在するイメージがつかなかった。
それでいよいよ大学3年生になって、夏には長期のインターンに行ってみたりするんだよ。
インターンで長野に行ってまで、缶コーヒーを買ってたね。
会社の敷地から出て道路の向いにある自販機で。
爽やかな青空とは裏腹に寝不足でぼやぼやしてて、カフェインを手放せなかったんだった。
インターン自体はいい経験だったものの、結局仕事についてはますますわからないだらけになっていたね。
仕事をしていても、"仕事"がわからないよ
ちなみに25歳になろうとする私だって、仕事をしている自分がよくわからないんだ。
古びた、人数にしては狭いオフィスでノートパソコンをカタカタ、システムの設計書作り。
たまにふっと視界が広くなって、景色の明度が上がる。
パソコンの画面を見ていたはずなのに。
「あれ?私は何をしていたんだっけ……。そうか、働いていたのか。
いまのが仕事なのかな? "仕事"って、なんなのだろう?」
ってね。
なのに現実で仕事をしているから、給料日には月の給料が振り込まれているんだ。
実にふしぎな話だ。
「頑張る」だけが価値ではない
さてこんな状態の私。
「仕事、頑張ってる?」などと聞かれたら、むろん返事に詰まる。
がっかりしたかな。
昔から私は「全部に精一杯取り組みたい」を抱えていて、迷いが生まれたのはまさにあの頃くらいだったから。
あなたも薄々感じていたはずだ。
「しゃかりきになって働くのは、果たして私やみんなのためになるのだろうか」って。
だからいま仕事で求められたことは丁寧にやっているけど、楽できる部分は楽する。息抜きは適宜させてもらう。
それでいいと信じている。
私にとって仕事とは金銭的・社会的に身を保つための手段の一つ。
そしてプロセスよりも表に見える成果物で相手の利益が決まる場所。
頑張っていようがいまいが、結果よければすべてよしなのだ。
逆に頑張っても結果がだめなら残念そうな顔をされる。
これは冷たい考え方かもしれないけど、いまは前向きにとらえたい。
心身を懸けて"働く"を頑張る必要はない。
あれだ、省エネと言うやつ。
省エネできたら仕事でひどく疲弊しないで済む。
納得がいかなかったら、がむしゃらに頑張る労力を効率化(省エネ)模索・検討に宛てたらいい。
もしかすると苦い缶コーヒーを飲まなくなったのも、毎日「よし頑張るぞ」をする必要がなくなったからかもしれない。
🥫☕
頑張るのは尊いことだけれど、頑張りすぎても疲れてしまう。歳を重ねるとより一層ね。
わかっているだろうけど、頑張るだけが生きることではない。
もし「頑張る」があなたの価値すべてを決めると信じていたとしたら、ちょっと見直してみてほしい。
何よりあなたが頑張って頑張って、無理を押して、ぼろぼろになってしまったら悲しいから。
おわりに
鉄の味がやばいと私の中で話題の缶コーヒーですが、ポッカサッポロのAromax プレミアムゴールドなら好んで飲みます。
あまり売っている自販機が見つからないのが玉に瑕。
当noteは「 #聞いてよ20歳 」コンテストに参加しました!
書くきっかけをありがとうございます。
20歳に向けて、伝えたいこと。
ひとしきり考えてみたものの、私から話すことが思い浮かばなかった。
だから20歳の自分自身に向けて書いてみた。
どうかな、昔の私はこれを読んでもフンッって、知らん顔しちゃうかもなあ。
昔を思い出すために書いていたブログを眺めていたら、ドンピシャで(ほぼ)現在の私に向けての記事がありました。
ほんとうに、笑ってしまうくらい変わっていないな。
5年後は頭の中で考えている(話している)ことが出力できる技術が発明されていたらいいなあ。
すまんね、脳内を文章化する技術はまだ世の中に出回っていないのだよ……。
次の5年後に期待かな。