ジジババはなんか変なカード見せるだけで無料でバス乗れるのでチートvol.1
呼び込み君がギラついている様子は本当に見ていられない
今や「ドンキの入り口にあるアレ」という共通認識が主にインターネットを介して全国区となった呼び込み君。
妙に頭に残る(といっても単純接触効果の範疇だと思うが)メロディと、毒にも薬にもならない塩梅の愛嬌が出力された顔。
よく考えたらモチーフもよく分からないし、顔も手足も、スピーカー筺体だけでは流石に味気なさを感じた町工場の従業員が図画工作で取ってつけましたみたいな小手先感を感じる。
しかしそのチープさの妙が店先で我々を魅了するのであって、仮に手入れを怠られて焼き芋什器の裏で埃を被りながらあの音を発していたとしても、我々に憐憫も不快感も生じさせないちょうどよいところで彼は大手を広げ、入り抜きの線で構成された顔をニンマリさせているのだ。
そんないきさつもあって、やはり顔が「いらっしゃいませ」になっている呼び込み君は、あんまりである。
換言するなら、「こんなのってないよ」である。どうにも「いらっしゃいませ」という文言は、我々の中にある「呼び込み君」という偶像に対して平行でも垂直でもない一番気持ちの悪い位置関係にあるように思えてならない。ねじれの位置で、なんかこう、ギラギラしている。流行りの概念に喩えるなら、縫いぐるみが陰茎を帯びるあの感じ。あるいは少し前の流行りに喩えるなら、例のワニが100日の余生を謳歌した直後の、一連のあの感じ。無論息子の検索履歴に残る「《アニメ》+全角スペース+“エロ”」のような微笑ましい感じとは違う。とにかく、中国のゆるキャラ®︎みたいな無益無害なあの顔が「いらっしゃいませ」になっただけで、いきなり途方もないギラギラが発生するのだ。
こうなってしまっては、商業に隷従する運命の元に生まれた悲しきモンスター感がいよいよ露骨になってしまう。「いらっしゃいませ」という文言は種族特有のリビドーの顕現であり、我々は「結局は商用製品か」という底の見えた感じを突きつけられる。文字と背景のすごく不快な補色関係も、己の本能と理性の間で葛藤するちぐはぐさを彷彿とさせる。
だから、呼び込み君に「いらっしゃいませ」のパネルをあてがう小売店には、近所の公園で児童に性知識を吹き込んで目覚めを促すロクでもないジジイと同じ種の身も蓋もなさを感じてしまう。「いらっしゃいませ」をもたげる呼び込み君の姿は、自らのキャパシティを超えた未知の衝動が理性の手綱を奪おうとするのに必死に抗う思春期の懊悩と相似であり、見ていられない。
そしてその苦悶の傍ら、我関せずといった調子で抑揚なくループを続けるあの電子音は、昼ドラの殺人シーンで流れるクラシックみたいな不気味さを帯びている。
SALTY ZAZY
鉄板焼や天麩羅などを頂く場面でよく起こりがちなイベントとして、料理の提供と共に「まずは何もつけずに」「まずは抹茶塩で」などの文言が寄越されることがある。それは、素材の味を最大限に味わってもらうという意図、そしてその向こうにあるのは「素朴」を極めた職人技の証左の提示である。
しかし僕は、いざ実食という時にこういったことを言われると、どうしても「何だかなぁ」と思ってしまう。なぜなら、「素朴に味わう」という行為をバーバルに推奨され、その文脈でそれを実行するという一連のプロセスは極めて出来レースじみた茶番であり、「素朴」にあてがうべき構造として不適当であると思うからだ。
そもそも「素朴な状態が良い」ことのありがたみを最大限味わうために必要なのは、再認性と自発性である。「素朴の享受」とは、足し算の繰り返しで輪郭が肥大化しがちな物事について、その根本にある原理的・根源的な良さを発掘し、それを自ら噛み締めるという行為である。
しかし、その享受の道筋を他者が予め規定し、さらには(この場合、美味しいという)結果まで(暗に)示してしまっていては、受け取る側もその既定路線に沿って解釈せざるを得ず、本来快感として自給自足的であるはずの「素朴」にマーケティングが侵略してきたような感じが生じる。簡単に言えば素朴の押し付け、人工素朴、養殖素朴であり、受け取り手からすれば素朴を「実感する」というよりは「確認する」というニュアンスの方が相応しくなってしまう。(当然のように使っているが「受け取り手」という表現が生じること自体がこの錯誤の顕れである。)
そして最終的に、確認された「素朴」をありがたがらなければならないムードが発生する。「ありがたい」という状態も本来は「素朴」同様再認性と自発性の上に成り立つはずのものであるので、こうしたプロセスを経由して形成されたそれにはやはり差し出がましさや恩着せがましさを感じてしまうのである。
「素朴マーケティング」という表現は割と妥当な気がする。テレビの食リポでも、シェフが「まずは岩塩で…」などと発するとタレントは「これは只者じゃないぞ」感を出して身構えるし、それによってその後生じる「素朴」が引き立てられ、インサート付きで事細かくリポートされる。「素朴」がマーチャンダイズされているのだ。飛び火すれば、近年巷で蔓延る「レトロ風」にも同じ類の品の無さを感じる。あちらは良くも悪くもミーハーな層を炙り出しているから、また違った感じの悪さがある。
自分でも良くないとは思うが、以上のような「素朴マーケティング」の構造に自分が巻き込まれることと、それが味覚のノイズになることを避けたいので、僕は大抵の場合タレや天つゆをガッツリつけて頂いてしまう。店によっては天つゆが予め提供されていない場合があり、そういった暗に「素朴」を推奨されている状況で天つゆを頼む際には若干の罪悪感があるが、天つゆごときに罪悪感を感じるのは世知辛いとしか言いようがない。
というか「素朴」云々を抜きにしても、抹茶塩だの岩塩だのは、しゃらくせえ。塩じゃん。抹茶の味がするなぁとかミネラルだなぁとかで納得しかけるが、全然「なんそれ!」である。結局塩なので、ウケる。何となく、僕はあまりそういう店には行かない方がいいのかもしれないと思う。
ガシガシという言葉は、言うほどガシガシ使えない
最近は専ら通販で朝鮮半島の辺りから服を買っては色味も生地感もサイズ感も写真と絶妙に違う物が届いてガックシする、ということを繰り返していた。HPには返品交換不可と書いてはあるものの、「ベルトループがナナメっている」という自分でもどうなのと思う理由をつけて(実際にナナメっている)メールを出してみたら全然返金してくれたし、しかも返送は不要ですと言われた。向こうも向こうで品質に関してはそんな感じの了解で商売をしているのだろう。それでも、海外発送の関係で届くまで2週間くらいかかるため否が応でも期待値が高まってしまう分、拍子抜け感はかなり重くのしかかる。そんなこんなで、なんとなくもうこういう通販は使わないだろうな、と思った。
なので、久しぶりに下北沢に行って古着屋を回った。デニムが欲しかったのでとある一軒でそのコーナーを漁っていると、ノイズキャンセリングを貫通して店員が話しかけてきた。本当に、アパレル人(びと)たちは怯む姿勢など一切見せないので感心する。僕が軍隊を指揮するなら、間違いなく前衛の切り込み隊に配置するだろう。
それはさておきデニム探しには難航していたので助けを借りることにして、色々と条件を伝えてそれに合いそうなものを何本か見繕ってもらった。それからしばらく彼のセールストークを聞いていると、突如「夏でもガシガシ使えますよ」という文言が飛び出した。
ガシガシ?
ガシガシ、使う?
いや、別にごく一般的な表現であるし、そのニュアンスももちろん理解している。伝わる。しかしどこまで行っても「ガシガシ使う」という言葉には「それにしたって、ガシガシ…?」という感じがつきまとう。
要因としてまず一つ考えられるのは、「ガシガシ」というオノマトペが実感の次元に降りてきたという心当たりの無さである。実際に洋服などをガシガシ使ったとして、その最中に「今俺、ガシガシ使ってるなぁ〜!」と感じた記憶は残念ながら見当たらない。あるいは仮に「よし、ガシガシ使うぞ!」と意気込んでみたとして、誰が見ても「ガシガシ」と形容するしかないような振る舞いを励行できる自信は果たしてあるだろうか?これも生憎、見当たらない。はたまた実際にガシガシ使っている人とそうでない人を見たときに、「こっちの人はガシガシ使っているな」「この人はお世辞にもガシガシ使っているとは言えないな」ということをどう断ずれば良いのだろうか。それを身に付けながら泥だまりにスライディングして奔放にのたうち回ったりしていたらその限りではないと思うが、大抵の人はガシガシか否かを断ずるものさしを持ちあわせていないだろう。無論、問いに対して「はい、私はガシガシ使っています」と断言できる自信もない。「ガシガシ」に対するこのような遊離感は、駅前で募金箱の傍ら「“アフリカ”では今も紛争が絶えず起こっています」と呼びかけられた時の、妙に燻る共感性とよく似ている。
次に考えられるのは、「ガシガシ」という単語のコロケーションである。コロケーションとは「よく使われる語の組み合わせや、自然な語のつながり」のことで、例えば「雨が しとしと 降る」という文の「雨」と「しとしと」や「しとしと」と「降る」といった組み合わせは、純日本的な響きの美しさを持っている。
対して「デニムを ガシガシ 使う」という文では、「デニム」と「ガシガシ」、「ガシガシ」と「使う」のどちらにも繋がりの流麗さを感じられない。「しとしと」を軸にこのいびつさを置き換えるなら、「ドラゴンを しとしと 討伐する」みたいなちぐはぐさである。(無論、大好きだった父が変貌した姿であるドラゴンを涙ながらに討伐するみたいな状況であれば「しとしと」でも全然問題ないと思うが。)
「デニムを ガシガシ 使う」に関しては、いっそ点を減らして「デニムを ガンガン 使う」とか、傾斜をつけて「デニムを ガツガツ 使う」とかにした方がコロケーションとして綺麗になる気がする。前者は「ガシガシ」のニュアンスを引き継ぎながらもよりポピュラーでキャッチーな表現に落とし込めているし、後者に関しても「ガシガシ」のアグレッシブさや後先考えない無遠慮な感じを増長し、かつより直観的に捉えられるようにしている。
やはり「ガシガシ」はファッションの文脈においてはどうしても頭ひとつ抜けきらない印象を受ける。むしろ「ドラゴンが ガシガシ 笑う」といった文脈の方が「ガシガシ」は輝く気がするし、転職を切にお薦めしたい。
「ガシガシ」について色々と考察を重ねたが、「ガシガシ使えますよ」と勧めたあの店員に「ガシガシ」について教授願うことができればそれが一番手っ取り早い。「ガシガシ使えますよ」と言うからには、「ガシガシ」を知悉しているはずだからである。というか、お洒落な街の古着屋で個性豊かな服や同僚に囲まれ、自身の身なりも小綺麗で、実際はどうだか知らないが休日には現代建築のアトリエで行われる妙にシックな美術展を鑑賞し、あえて壁紙にタールが沈着した喫茶店でブルーマウンテンを飲み、触れるものと言えばカネコアヤノやSummer of 85のような感じの良いものばかり、みたいな人でも、デニムをガシガシ履くようなことがあるのだろうか。服をガシガシ売る、コーヒーをガシガシ飲む、カネコアヤノをガシガシ聴く、とは言わないのだろうか。あの店員も「ガシガシ…?」と思いながら客に言っていたとしたらそれはそれで面白いので、それならそれで良い。
以上です。