上を向いて歩こう いくらがこぼれないように
丼に盛られた白米の上に宝石のようないくらを惜しげもなく乗せ、ついには丼の外へこぼれ落ちる…という趣旨の食文化である「こぼれいくら」。実際に食べたことはなくとも、昼のワイドショーの食リポなどで目にしたことがある人は多いだろう。何を隠そう、日本人はこぼれいくらが大好きなのだ。しかし皆さんはこの機に、一度冷静に考えてみる必要がある。こぼれいくらって、何だよ!?
確かに、いくらがたくさん乗っているのは嬉しいことである。よくあるいくらの軍艦は大抵1皿に1貫しか乗っていないし、2貫乗っていたとしても甲板の大半をいまいち瑞々しさのないきゅうりスライスが占めている。あれがどこか物悲しい状態であることは共通認識だろう。
しかしだからと言って、いくらがこぼれていて、嬉しいだろうか?いくらがたくさん提供されるのが嬉しいのであって、こぼれていることは別に嬉しくなくないか?むしろ「こぼれている」という状態は一般に嬉しくないの部類に入ると思うのですが、いかがですか?
僕は小さい頃からファミレスに行くと必ず注文するほどコーンポタージュが大好きなのだが、だからと言って器になみなみと注がれていたら、それはしっかり引くだろう。まして器の外にまでこぼれていたとしたらなおのこと、引く。「こぼれコーンポタージュです」と自信満々に言われても、「キチガイレストラン?」と思うだけだろう。「こぼれている」という状態は圧倒的に「嬉しくない」に分類されるからだ。
液体を引き合いに出すのは卑怯だと言いたげなこぼれいくらのフォロワーのためにもっと固体然とした例で考えると、喫茶店でシャインマスカットがたくさん乗ったフルーツパフェを注文したとして、そのシャインマスカットがサンデーカップの外側にあれよあれよとこぼれ落ちていたらどうだろうか。その状態はやはり「嬉しくない」だろう。
ではなぜ、全ての食べ物の中でいくらだけはこぼれても良しとされているのだろうか?もう少し意地悪な言い方で問題提起をすれば、いくらがこぼれていなければならない理由はあるのだろうか?
当然、こぼれていない方が食べやすさでは優っているはずだ。食事のフローの中に「こぼれたいくらを拾って食べる」という手続きが増えるため、こぼれていない場合には発生しない煩わしさが生じる可能性がある。箸ではマナー豆状態もあり得る。
それでもなお「こぼれ」いくらでなければならない理由。それは、「なんか凄そうに見える」からである。つまり店側のマーケティング戦略だ。確かにこぼれていた方が見た目のインパクトは強いし、その点では我々も「映え」という利点を享受できる。
しかし、大の大人がこぞって作為的にいくらなんかをこぼし、それを写真に収めてやいのやいの言っている構図は側から見れば非常に滑稽である。それに、いくらをわざとこぼしただけのものに「こぼれいくら」なんて白々しい名前をつけてマーケティングしているのはとても感じが悪い。「こぼれ」という表現はさも「いくらが多すぎて勝手に溢れちゃいました…」とシラを切るような調子だが、まるきり店側の思惑でやっていることだし「こぼしいくら」という表現の方が適切である。「甘栗むいちゃいました」の潔さを見習った方がいい。
結局こぼれようがこぼれまいがいくらの総量は同じなのに、市場ではこぼれている状態の方がありがたいように演出されている。消費者である我々はその朝三暮四的な手法で見事に一杯食わされているのだ。
そもそもよく考えれば、縁起でもないことである。いくらは卵なので、それが大量にこぼれ落ちているというのは表象として子孫繁栄の対極にある。おせちの中でその意味合いを背負っている数の子を「こぼれ数の子」などとしたらトラディショナルな層から反感を買うだろうが、いくらは誰にも憐れんでもらえないまま海鮮業界の広告塔にされている。不憫である。魚卵の中にも序列とそれに伴う就業格差があるのだ。
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こぼれいくらを目の前にした人のリアクションとしてよく「幸せ」という声がある。こぼれるほど大量のいくらを食べられることがまるで夢のようといった感想だが、普段はいくらのことなどほとんど考えていないくせに、いざ食べる機会が訪れると途端に溢れんばかりの量を欲するその心理は何なのだろうか。回転寿司の両の指で数えられそうな粒数のいくらとこぼれるほどの大量のいくらという両極端を行き来しているのは、消費行動としてなかなか他には見られない傾向だろう。
そもそも、いくらがこぼれることは幸せたり得るのだろうか?幸せが多様化するこの時代に個人の幸福観について一意に断ずることはできないが、それにしたっていくらがこぼれただけでは幸せの閾値として低すぎる気もする。それにどうせ同じ量のいくらなら、こぼれていない方が幸せであると僕は思う。一般に、幸せがこぼれ落ちた状態のことは「不幸」と呼ぶからだ。