私と吃音と

 Noteをご覧の皆様こんにちは。日向甲陽(ひなたこうよう)と申します。
 ここでは20代前半の私が日々思うことを言語化していこうと思っています。ただ頭の中でぐるぐると考えているだけではもったいないですからね。言ってしまえば皆様はこれから私の自慰行為を見させられる、ということになるわけです。ですのでそんな意味のないことをお楽しみいただける豊かな皆様に向けて発信できたらいいなと思っております。
 しかしながら、そのためにはまず私がどんな考えを持った人間であるのか、どんなバックグラウンドで育ってきた人間なのかについて共有しておかなければならないでしょう。まずは価値観の共有から、という訳です。
 私の価値観に大きな影響を及ぼしたものの一つが、吃音です。吃音が自分の人生の中で良くも悪くも輝いたものでした。軽度なんですがね。ひどい人だと障碍者手帳が貰えるだのどうのなんて話も聞きますが、私のそれは私が気を付ければ日常生活に大きな影響を及ぼすものではありません。正直な話、めちゃめちゃ気を付けたり練習すればノーミスで喋ることさえできるレベルです。

吃音のイメージ
 これはあくまで私だけのイメージです。小学校低学年からかれこれ15年近く付き合ってきた存在ですから、これまで幾度となく分析してきました。それをちょっと言語化してみたいと思います。
 私の吃音はまず、言葉が出にくくなるというものです、それも特定の五十音が先頭に来る言葉です。私の場合はア行、つまり「あ、い、う、え、お」が先頭に来る言葉が非常に言いにくい、口から出にくいのです。
これで一番困った、困っているのは「ありがとう」が言いにくいこと。もう何年もトレーニングして「ありがとう」の精度を上げてはきましたが、それでも淀みなく「ありがとう」を言える確率はざっと9割弱というところでしょうか。本来ならば百発百中のものだと思います。
 ここからが本題なのですが、吃音、少なくとも私のはどのようなイメージであるのかについて説明したいと思います。
 まずイメージしていただきたいのが、キーボードです。いわゆる一般的なパソコンとか文字を打つ方のものです。そこで例えば「あ」と打ちたい、画面に表示させたいと思ってキーボードを打ちます。しかし画面には「あ」が出てこない、そんなことたまにありますよね。そうなったらどうするか。表示されないならともう一回、あるいは気が短い人なら何度も同じキーボードを打つでしょう。
 そうしたらちょっと遅れて、ちゃんと打った分の「あ」が出てくる。人によっては「あああああ」みたいな感じになってしまう。こんな感じなのです。
 もっと具体的に言うならば、頭の中では「あ」という言葉を発せという命令を出すわけですが、口がそれに反応しない。そのため言葉が出るまで何度も「あ」を出せと命令する。そしたら無理くり、命令通り「あああああ」となってしまう訳です。そして実際に発声する際にどもってしまう―少なくとも私の場合はそのようなイメージです。
 正直覚えていないくらい昔から付き合っているものではあるのですが、両親はこれが気がかりだったそうで、いわゆる心療内科の類のクリニックに小学生時代よく連れていかれました。そこでは絵本を音読するトレーニングやお喋りするなど、今思えばよく分からない治療と呼べるかどうか怪しいことをしていました。幸いにも音読や歌うときにはあまり吃音が出ることがありませんでした。
 何の根拠があったのかはわかりませんが、「小学校5年生までに治らなければ一生付き合うことになる」とお医者さん?に言われてからは、両親も少しヒステリックに治療させようとしていました。ただ、私はその時すでにある程度工夫すればそれほど目立たたないものだと思っていましたので、治療の継続を拒否しました。今振り返ってみれば、吃音も含めて私だと、それが個性だとその時すでに考えていたのかもしれません。


 どういった工夫をしていたのかと言いますと、簡単なことで、別の言葉で言い換えればいいだけなのです。ただやっぱり「ありがとう」だけはしっくりくる言いかえがいまだに見つかっていませんので、今も精度を上げるために練習中です。
 そのおかげか私の言語能力はおそらく一般的な日本人よりも高いのではないかと思います。吃音がない人よりも同じ意味を持つ言葉のボキャブラリーが多いことになるはずですから。その証拠になるかはわかりませんが、私は日本語検定(日本人のための日本語の検定試験)で最高位である1級を取得しました。確か高校生の時だったと思います。
 「久闊を叙する」とか「鴛鴦の契り」といったような明治時代の小説でしか出てこないような難しい言葉がたくさん出てきたのを覚えています。
 そう、考えてみれば、私に吃音という適性がなければ、ここまで日本語に詳しくなることはなかったわけです。少なくとも日本に暮らしている以上、日本語を母語としてコミュニケーションをとっている以上、これに詳しくなるのはプラスの事でしょう。ただ、それに対するマイナスが大きいだけで。
吃音は発達障害の一種と認識されているそうですが、私はあくまでプラスとマイナスのさじ加減であると思うのです。何かできないことがある代わりに、人よりもより出来ることもあるといったものであると考えています。
 ただその出来ないことが、現在の社会で生きていくうえで相当なハンディキャップを背負うことになるために、発達「障害」と判断されるのではないかと思います。個性の一種でしょう。よくゲームなどであるような五角形のパラメーターのうち、どこかが大きくへこんでいて、その代わりにどこかが大きく尖っているようなものだと考えていただけるとよいのではないかと思います。
 私は自分の吃音に対して配慮しろとは思いません。生まれつき背が低い人もいれば、モデル体型の人もいる、その程度の事だと考えるからです。普通に個性の一つとしていじってもらいたいとさえ思います。ただ中には比喩ではなく死ぬほど気にしてしまう人もいます。やっぱり気にならないぐらいのいじりのラインは同じ吃音を抱えた人間しか分からないものだと思いますし、「吃音になったことないくせに」と思われてしまいかねません。
 ですので、私から吃音でない皆様にお伝えしたいこととしては、「どうぞスルーしておいてください」です。

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