課題解決と余計なお世話は紙一重
今朝、車座というポケットマルシェCEO高橋さんが主催しているイベントにゲストとしてお呼びいただきました。
テーマは「死」だったので死について語ったわけですが、、、
私が死をどう捉えているのか。
死が遠ざけられ、隠される現状になぜこんなにも(大学を休学して「むじょう」なんていう会社をつくってしまうほど)危機感を感じているのか。
案外発信してなかったんだな〜と気付かされたので、短文になりますがこれからnoteに書いていければと思います。
今日は手始めに軽いテーマで。
「課題解決と余計なお世話は紙一重」という件について。
世の中には社会起業家と言われる人がいて、様々な課題の解決を目指しています。素敵なことですし、心から尊敬します。
私もNPOの代表をやっていることもあり「社会起業家」とラベリングされることがあるのですが
「僕は社会起業家ではないので、肩書をNPO法人ムラツムギ代表理事にしておいてもらえませんか?」
と頼んだりもします。
課題解決って言葉がしっくりきてないのかなと。
課題があるから解決する、という行為は理解できます。高校時代、男子寮で生活しており日々、課題解決をし続けなければやっていけない環境だったので。
生活に根ざした課題が本当の課題なのに、第三者が勝手に「課題」といってしまう事の危険性があるからです。
課題解決と余計なお世話は紙一重です。
なんでもかんでも「課題」とラベリングせずに、ポジティブに捉えられる側面から、歩み寄れればいいと思います。
例えば空き家
「空き家問題」と言われますが、景観・防災・防犯などの外部不経済を切り取って問題というラベルを貼っています。
もちろんそういう空き家もあります。一方で、家の持ち主にとっては「大事な財産で思い出のハコだから、売ったり貸しに出したりできない」という場合もあります。
じゃあどうしましょうか、家の思い出をバシッときれいにまとめた冊子なんかがあったら、一歩踏み出せますか?みたいな議論もできるわけです。
ムラツムギがやっている家史はこういう文脈があります。
あとはシンプルに、本当に課題解決をしている場合は、儲かる場合が多いかと思います。
これもまた変な話ですが、価値を定量化した「お金」を払う対象になる、というのはそれなりに価値があると認められているからですね。
資本主義に乗らない課題ももちろんあります。
そういう類の課題は「共感資本主義」的な文脈に乗るはずなので寄付型のNPOとかで成り立つはずです。
もっとニッチなところは行政の仕事です。
すごい綺麗事ですね。
これができたら苦労しないんですけどね。