葬想式に込めた願い〜抽象編〜
葬想式は株式会社むじょうが提供しています。
社名にもある「無常」。
日本人の特徴的なメンタリティである「無常観」がこれからの時代に人間を人間たらしめると考えています。
例えば。
三陸の沿岸に住む人々は昔から、幾度となく津波に襲われながらも、またその地に帰りました。 自然には勝てないこと、無常であるとわかっていたのです。
ですが、3.11のあと、高い防潮堤をつくって自然に勝とうとしています。
「住民の生命を守るため」
で筋が通る世の中になっています。
そこに無常観はなく、全てをコントロールできるという人間中心的な考え方が現れています。
これが私の違和感の1つです。そこでなぜ葬想式なのか。
ストレートな言い方になりますが、死も「自然」です。生命はいつか終わる。一方、全ての自然コントロールできると思い込んでいるところに「死」が訪れた時、その人はどうなるでしょうか。
死に蓋をして隠す世の中になって、死のリアリティがなくなりました。
人生には締め切りがあって、それまで生き切らなければいけない。明日死ぬかもしれない。その感覚が限りなく遠ざかり、実感できなくなっています。
同時に生きるリアリティも失われている気がしてなりません。
だから私達はオンライン葬儀「葬想式」を通じて死に触れる機会をつくっています。死に触れるハードルを限りなく下げています。
昨今、家族葬や直葬といった小規模なお葬式が増えており、知人・友人の葬儀に参列できない場合も多くなっています。そこで、リアルのお葬式とバーチャルのお別れの機会を組み合わせることで、死を実感し、さらには自分の生を見つめ直す時間にしてほしいという願いを込めています。
一方で、これで死のリアリティを100%実感できるとは思っていません。
友人が亡くなったとしましょう。
この前まで生きていた友人のために、なぜか喪服を着る。
この前まで生きていた友人のために、なぜか車に乗り込む。
この前まで生きていた友人のために、なぜか式場へ向かう。
到着すると式場に友人の名前が書かれた看板が出ている。
式場に入ると
この前まで生きていた友人のために、なぜか芳名帳を書く。
この前まで生きていた友人のために、なぜか香典を渡す。
そして遺体と対面する。
この前まで生きていた友人が、なぜか棺に収まり横たわっている。
このようなプロセスを踏んで死を実感し、受容していくと考えるからです。
葬想式はまだまだはじまったばかりです。
これからも私は生命と向き合う事業をやり続けます。
そして、無常観の再生を目指します。