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バラナシ見聞録① -喜捨と業
2月第1週、インドの四大聖地(プラヤーグラージ、ハリドワール、ウジャイン、ナーシク)で12年ごとに開催されるクンブ・メーラというヒンドゥー教のお祭りに合わせて、インド・バラナシに4日ほど滞在してきました。
今年のクンブ・メーラは、144年に一度の特別な配置となる天体の影響を受けるとされ、「マハ・クンブ・メーラ」と呼ばれる非常に重要な祭典だったので「これは行かねば!」と足を運びました。
そこで見聞きし、考えたこと6本の記事に分けて記録します。前半4本はバラナシの街で考えたことの記録、後半2本はクンブ・メーラで考えたことの記録となります。
今日はその1本目、「喜捨と業」についてです。
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バラナシの街を歩いていると、物乞いに声をかけられることが多い。特に子供たちの姿が目立つ。その光景を目にして考えたことを記録する。
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まず、なぜ物乞いの子供達で溢れているのか。バラナシで出会った比較的裕福な方にこの問いを投げかけたところ「子供をつくりすぎている。裕福な家庭の子供は1〜2人だが、貧しい家庭には多くの子供がいる。」という回答だった。
「なぜ貧しい家は子供をたくさんつくるのか」という問いに対しては答えてもらえなかった。
AIにこの疑問を投げかけたところ、以下のような回答が返ってきた。
・労働力としての子ども:子どもが家計を支え、老後の保障になるため。
・乳児死亡率の高さ:医療が不十分で幼くして亡くなる子が多いため、生存率を考えて多く産む。
・避妊の知識不足:避妊の知識や手段が限られ、計画的な出産が難しい。
・宗教/文化的な価値観:「子どもは神の贈り物」や「息子が必要」という考えが根強い。
・女性の地位の低さ:女性に出産の決定権がなく、早婚や多産が強いられることがある。
彼らが逞しく生きる姿に対し、喜捨をすることもできる。しかし、それが"業の深い営み"に思え、私はどうしても前向きになれなかった。
このような環境で育った子供は将来どうなるのか。この喜捨によって今日のご飯にありつけても、明日はどうするのか。もしかしたら親の酒代になってしまうかもしれない。それならお金ではなく食べ物の現物支給がいいのか。色々と考えた。
目の前の1人への施しが意味を成す感覚を持てず、むしろこの負のサイクルを助長してしまうような気がしてならなかった。
物乞いで得られるお金はたかが知れているが、物乞いでしか収入を得た経験がなければ、もしその子に子供ができた時に物乞いしか教えられないだろう。
また、物乞いの子供が大勢いる中で、全員に渡すことはできない。その中で判断を下すことは命の価値を平等に扱わない行為を自分に課すことになる。その業を背負うこともまた後ろめたく感じられた。結局私は子供に対して喜捨することはなかった。
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NPOへの寄付など、寄付という形をとるからこそ成せる営みに対しての喜捨は前向きにできるのに対し、貧困の子供達と対峙した時に前向きに喜捨できなかった。喜捨する、しないの話ではなく、何かの判断を下す際に引き受けてもいい業と避けたい業について考える機会になったので、時間をかけて思索したいテーマとして記録する。
photo by kensuke akanuma