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砂山影二の生涯 3
今回は、『銀の壺』のあと発行された『海峡』の時代についての文章です。『海峡』は、その後、平成の時代まで形を変えながら、函館の地域に根付く文芸誌として続いていきます。そのスタートのお話です。
2 『海峡』時代(大正九年~大正十年)
大正9年、『銀の壺』の夜光詩社と『櫻草』の櫻草詩社は、合併することとなり「海峡詩社」と名前を変える。
『櫻草』は、『銀の壺』の姉妹誌として、奈良愁果の編集、中野寅雄の印刷で大正8年純文芸誌とし創刊された。20センチ×27センチという『銀の壺』より大判のサイズで、基本的に短歌が中心に掲載されている文芸誌である。若枝草三郎は、『銀の壺』第五号には次のような文章を残している。
「親友奈良愁果君主宰の櫻草詩社で『櫻草』が創刊された瀟洒な気持ちの好い短歌誌である『銀の壺』の姉妹として多くの愛読を乞ふ」(『銀の壺』第5号「編輯卓上」より)
若枝草三郎と奈良愁果は、友人であり、お互いに刺激しあえる良い関係であった。『銀の壺』第5号の裏表紙に『櫻草』の広告を載せている。『櫻草』との合併は、この時点で運命づけられたものだったのかもしれない。その後、互いに順調に号を重ねていくことになるが、経済的な行き詰まりや雑誌自体の存在理由などを問う声などもあり、奈良愁果からの申し出で、合併への検討がなされていく。当時の様子をのちに行友政一は、次のように書いている。
「続刊に苦しんでゐた櫻草詩社の奈良愁果より、合併に関する提議があり、同人間に慎重なる協議が続けられた。/旧同人間には流石に、夜光詩社存続説が、熾烈だつたが、経営其他原稿難を考へれば、自説を固持する事、殆ど不能の状態だつたため、総てを若枝草三郎と中野草夢(砂山影二)に一任し、茲に思ひ出深き夜光詩社は解散された。」(『函館歌壇史』「夜光詩社と海峡詩社」より)
このようにして、合併の話が現実化していき、『銀の壺』が第10号、『櫻草』が第8号で終刊となる。次に挙げるのは、それぞれの終刊にある合併に関して文章である。
「この第十號を刷りはじめた頃、櫻草詩社の奈良愁果君との間に、いつか「改造」といふ囁やきが交わされてゐた。それは櫻草と銀の壷と合併して新たなる努力をこゝろみやうとしてゐるのだ。時によつたらこの十號で銀の壷とお別れになるかも知れない。/同じ函館にゐて同じサークルから二つの雑誌銀の壷と櫻草を出してゐることの無意味なことを考へてゐる。」(『銀の壺』第10号・砂山影二)
「櫻草第八号をもつて終刊として下さい銀の壺第十号をもつて終刊とします合併してやりませう改造!私はこれを叫びます(中略)じつとしてはゐられなくなつてきた今草三郎へ手紙をかきましたいづれゆつくり逢つて相談したい……/影二からきたこの葉書を見たのが編集ももう終へる二月二十三日の夜でした/姉の様に妹の様に仲良くやつてきた銀の壺です櫻草ですかたがたこの話は以前一度起立した話なんですから私だけの快好い諾!の返事を早速して後同人達によく話をしましたら皆心よく同意してくれましたし銀の壺の方でもまた皆同意したさうです」(『櫻草』Band「先のへつたペン」・奈良愁果)
これらの文章を読むと、前述の行友政一の記述にある「奈良愁果より」というよりは、影二が合併を強く望んでいたようだ。『銀の壺』創刊当時の雑誌を作る上での情熱は失われてはいないが、周囲の変化や経済的事情、自分の作品のスタイルの変化などもあって、「改造」を強く望んだのであろう。何とか同人の同意を得て、合併に関わる様々な手続きを精力的にこなしていくのである。この時の動きを語るためには、時代を明治までさかのぼらなければならない。
「夜光詩社」と「櫻草詩社」が合併して「海峡詩社」となるが、その「海峡詩社」のもとをたどれば、石川啄木に行き着く。啄木が、在函していた明治四十年に、苜蓿社の仲間と「海峡新聞」を発行する計画があったが、函館大火後、苜蓿社の解散で計画のまま終わってしまった。その後、明治44年4月に、宮崎郁雨、吉野白村、岩崎白鯨、白樺六郎、並木翡翠、丸谷桃浪、そして当時東京にいた石川啄木を仲間に引き入れて興した文学結社が「海峡新聞」から名をとった「海峡詩社」なのである。しかし、同人の離散・死去により、何もせぬままに自然消滅してしまう。そのことは、啄木の義弟宮崎郁雨の文章に詳しい。
「石川啄木が函館で苜蓿社の同人吉野白村や、岩崎白鯨、並木翡翠、私など一緒に、実際と夢想のけぢめも辨へぬ様な、若い日日を送つてゐた頃『海峡新聞』の発刊が我々同人の仕事の計画として取上げられたことがある。函館、青森両市を舞台とした芸術味豊かな大新聞を経営しようと云ふのである。提言者は無論啄木であつたが、編集と印刷を連絡船の中でやらうと云ふのが狙ひどころなのである。これは多少とも実現の可能性がある様に考へたのか、計数的な設計なども話題に上つたことを記憶している。(中略)/明治40年の大火で苜蓿社が潰滅した1、2年後、白鯨及び私、外二三の残党が集つて社を結び、同人や同好者の歌を新聞に発表したり、短歌会を開催したりしたが、その時選んだのが、此の『海峡新聞』からヒントを得た『海峡詩社』の社名である。其後啄木が逝き、白鯨、白村、翡翠など相尋いで世をすてたので、詩社も自然消滅になり、世間からは全く忘れられて了つた。/ところが大正九年の春『啄木に私淑する事深き』青年歌人砂山影二が中心になつて、奈良愁果、若枝草三郎、行友政一などを同人とする海峡詩社が再誕生し、機関誌『海峡』を発行、別に歌集の出版や、文芸的集会などをやつて多事多彩な活動をした。」(『海峡』昭和22年1月号「『海峡』と啄木」より)
啄木に傾倒する影二は、ここにあるような話を実際にどこかで耳にしたのだろう。自分たちの「改造」のために『海峡』の名前をどうしても使いたく思い東奔西走する。そんな影二の様子を、前出した行友政一の「夜光詩社と海峡詩社」に次のように記されている。
「石川啄木に私淑する事深き砂山影二は、啄木の曾て創設せりと言はるゝ海峡詩社の名を、岡田図書館長に交渉の上、貰ひ受け、旧同人の承認をも求める一方、夜光詩社と同時に解散せる、櫻草詩社の奈良愁果を誘ひ、斯くて、若枝草三郎、保坂哀鳥、伊東酔果、日下部後志郎、梅原香三郎、奈良愁果、砂山影二を同人として大正九年春海峡詩社の生誕を見るに至つた」(『函館歌壇史』「夜光詩社と海峡詩社」より)
そして、大正9年8月5日。ついに雑誌『海峡』が創刊されることとなる。「海峡詩社規」が次のように定められた。
海峡詩社規
◇『海峡』を愛してくれる人はすべて社友である。
◇毎月一回短歌雑誌『海峡』を發行する。
◇社友から眞實なる歌稿を募る。二十首以内。締切毎月十日。但し取捨は同人に一任せられたし。
◇投稿寄贈等總ての紹介は發行所宛のこと。
「夜光詩社清規」と比較すると、実にシンプルなものとなった。「社費」などは示されてなく、月刊誌となった。『銀の壺』の売れ行きなどから勘案して、経済的にも経営していけると判断したためであろう。もし、赤字が出たら、編集に携わる同人が負担することになるのだから、相当勇気のいる決断であったに違いない。
「僕はどうしてかうなつたのだらう。このごろはちつとも手紙を書かない。いつもやさしい消息を下さる社友の皆さまにご返事も上げませんで何とおわびしていいでせう。日記をつけるのさへも億劫になつてしまつて、みんな焼いてしまつたりした。/銀の壷の終刊號を出してしまつたとき、もう雑誌發行なんか煩わしい仕事を止してしまうかと思つた。丁度櫻の咲く頃に病気でしばらく寝てゐたが、急にまたやりたくなつて来たので、やつぱりやることにした。/とにかく海峡の第一輯を作りあげて見た。悪いところはだんだん直して行きたい。/海峡と名を變えたことに對して反感を抱いた人もあり、嘲笑つた人もあり、またたいへんによろこんで呉れた人もあつた。かなり古い歴史を持つてゐる夜光詩社を失ふことをしきりに残念がつた人もあつた。この事で気の小さい僕も随分苦しんだ。/海峡を今度毎月出して見たいと思つてゐる。頁の都合で次號へ廻つた歌も少なくない。その人々におわびしてをきます。」(『海峡』第1輯「思ひついたまま」より)
記念すべき「改造」の第一歩を踏み出すことになったのだが、創刊号の影二の書いている文章は、創刊前の精力的な動きに反して、積極性が薄れてしまっている。「銀の壷の終刊号を出してしまつたとき、もう雑誌発行なんか煩わしい仕事を止してしまうかと思つた。」とは、どういうことなのだろうか。後に影二の自殺の原因をある新聞は、当時「20世紀病」と呼ばれた「神経衰弱[i]」であると書いている。いろいろな人の証言からの判断であろうが、もし、本当に影二が「神経衰弱」であったとしたならある程度の説明がつく。「神経衰弱」は、ノイローゼの症状の一つとされている。人間は誰しもが多少の気持ちの浮き沈みがあり、その中で調整を図りながら生きているものだ。しかし、影二は、複雑な家庭環境、神経質な性格、過酷な労働などが影響して、その調整を図る度量を越えてしまったのだろう。
また、影二は、『海峡』創刊後、正確に言うと『銀の壺』の最終号以降、誌上で「中野草夢」の名を一切使わなくなる。後記や私信で使い続けていたペンネームであるが、ここで完全に決別している。前述したとおり、編集者としての自分と歌人としての自分を区別していたのが、ここで一つになる。それは、「中野草夢」と「砂山影二」、または「中野寅雄」と「砂山影二」の同一化ではない。歌人「砂山影二」として生きていく決意ともとれるが、そう前向きな発想からのものでもない。「神経衰弱」によって編集者としての情熱が薄れてしまったためだととらえるのが妥当であろう。この頃から、影二の様子や作品に少しずつ変化が見られはじめる。自分の人生のまとめに入るかのように、『坊ちゃんの歌集』出版へ向けて動き始める。そして、一歩ずつ「死」へと向かっていく。
その後も、『海峡』は、遅れながらも号数を重ねていく。第2輯を同年9月5日発行。第3輯を同年10月15日発行。そして、影二が関わった最後の号となる第4輯が翌年大正10年3月5日発行となる。この第4輯につぎのような後記を残している。
「『銀の壷』を出してゐた頃がなつかしい。あの頃の熱がもうしつかり失くなつてしまつた本號は十一月に編輯が済んでゐたのに、音楽會なんかやつたりして、騒いでばつかりゐてしつかり怠けてしまつた。/私は何といふ怠け者になつたろう。四輯がこんなに後れた事を皆さまにおわびいたします/愁果君は入営した。銃を持ちつゝも残された母上を思ふては涙してゐるだろう。/私は此頃ちつとも手紙を書かない。社友の皆様からなつかしいお手紙を戴いてをき乍らご返事もさしあげない。まことにすまない。/今度鐘太郎氏が主宰で『トリトン』といふ純詩の雑誌を出すさうだ。きつとこの海峡と前後して出るだろう。仝氏の奮闘を祈る。/今度都合あつて社を行友君の家へ置くことにした。ひとりで引受けて何もかもやつてゐると、ともすると雑誌の方が後れ勝で。/僕の『坊ちゃんの歌集』も餘程出来た。おそくとも三月の中頃には出したいと思つてゐる。次號は四月一日に出したい。原稿をすぐ送つていたゞきたい。/何だか書かねばならない大切なことを書き忘れたやうな気がするけれど。/何がなし旅が戀しい。」(『海峡』第4輯「久しぶりで」)
「『銀の壺』を出してゐた頃」とは違う精神状態にあり、編集者としての情熱も失われた。そこで行友政一に『海峡』を託すのである。影二の死後発行された『海峡』第五輯奥付には、「発行兼編輯人」として「行友政一」の名前が記されている。「都合あつて」とあるが、その内容は「ひとりで引き受けて何もかもやつてゐる」と定期発行ができず迷惑をかけることにある。第四輯の奥付には、「編輯人 保坂貞正」「印刷兼発行人 中野寅雄」とあるが、実質的な編集から発行印刷まで影二が手がけていたのだろう。もし保坂貞正(哀鳥)が編集を一手に引き受けていたとしたら第5輯以降、行友政一に託すのはおかしい。そのまま保坂に託すのが筋である。
また、影二が一歩身を引いたことに対して、死を前提としての行動ともとる。「次號は四月一日に出したい。原稿をすぐ送つていたゞきたい」という言葉から、あらゆることに決着を付けて「死」へ急いでいるようにも感じるからだ。この時から、影二が、来る5月19日の死を具体的に考えていたかどうかは定かではない。しかし、第5輯が影二の最後の作品を掲載するであろうことは本人の脳裏にあったはずである。以下、次章で検証していきたい。
[i] 1880年に米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種。当時「二十世紀病」と呼ばれていた。現在は、病気としての症状が曖昧なため病名として使われていない。夏目漱石がロンドン留学時に罹患したと言われている。