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三浦綾子「塩狩峠」感想

本との出会いはふしぎなもので、その時々に必要な本、読むべき本というものが与えられているような気がする。今回もとても良いタイミングで、読むべき本が与えられた。

読んだ本は三浦綾子の「塩狩峠」である。名前とあらすじこそ知ってはいたものの、読んだことはなかった。今回夫のご家族——いわば私の大切な家族でもある——が日本からわざわざ買ってきてくれた。元々その本をお願いしていたわけではないけれど、もしまだ読んでいなかったらとご好意でプレゼントしてくれた。

この本は、共感と感銘、そして人生においてどう生きるかという疑問を私に与えた。

三浦綾子氏の本は、「愛すること信ずること」というエッセイしか読んだことがなかった。それも不思議な縁で、たまたまニューヨークでいま住んでいるアパートに前の住人が残していった本棚の中にあったのだ。それを読んでいたから、彼女が敬虔なクリスチャン、それに生まれながらのクリスチャンではなく成人後に洗礼を受けることを決めた人であること、重い病気で臥ていたこと、また『氷点』が彼女の代表作であること、出身は北海道であることなどは事前に知っていた。

彼女の作品を読んで、特に彼女が「成人後に洗礼を受けたクリスチャン」であることというのは彼女の作品を語る上で重要な点だと感ずる。「塩狩峠」の主人公、永野信夫もそういう人物である。クリスチャンの母を持つ彼は、紆余曲折あり本人はキリスト教に対してあまりいい印象を持っていなかったが、成長するにしたがい様々な経験と共に信仰に目覚め、それを成長させていく過程が「塩狩峠」のなかで鮮やかに描かれている。

特に信夫が熱を出して寝込んでいた時、信夫の幼い妹、待子が信夫のために祈る場面が印象的だった。信夫は幼い妹の祈りを初めて目の当たりにしたとき、こんなに美しい祈りが世の中にあるのかと感動する。どれだけこの妹が自分のことが好きで、真剣に思っているのかということがその祈りを通じて信夫に伝わったのだ。

その感動というのは、私にも覚えがある。それは夫がはじめて私の前で祈ってくれた時の、あの感動だったからだ。声に出して、あなたのことを大切に思っているよ、愛しているよ、と伝えられる経験というのは、普通に生活していたらあまりないのではないかと思う。世の中にはこんなに純粋な愛があると実際に経験を通して知る機会というのは、そう多くはない。もちろん自分が両親に愛されている、というような実感はあれども、口に出して言われることとは多くはないのではないだろうか。その愛を、神様への祈りを通して知るとき、私たちは初めて「愛で満たされている」という感情を知るのではないか。

 信夫の小学校以来の友人で、吉川という人物がいる。彼らはただの友人としての付き合いではなく、自分たちの情けない部分や至らない部分を語り合ったり、人生とはなにかといった会話を交わすことのできる「本当の友人」として描かれている。彼らの若き日の会話の中で、『この世の中に、なんらかの意味も見出せないとする考え方もあるかもしれん。人間も犬も猫も、単なる動物に過ぎない。そして、死んでしまえば一切が無になる、と言う考え方もあるだろう。だが見るもの聞くもの全てに、自分の人格と深い関わりを感じ取って生きていく生き方も、あるわけだからね。』と言う吉川の台詞がある。彼はクリスチャンではないが、この考え方は非常に聖書的であると感じた。また、彼は生とか愛とかいう問題に、ほんとうにまじめにぶつかって生きていきたい、毎日の忙しい生活の中ではうわすべりのような生き方になってしまうとも言っている。私は聖書を知る前、信じるものもなく死ねば無に帰すだけであり、この世に生まれ落ちたのはなんらかの罰でさえあると思っていた。だからこそこの世は地獄のような場所であると思っており、生きていても死んでいても希望などというのはないと思っていた。絶望していたわけではないが、そういうもんだとある種の諦めを持って生きていた。しかし、夫を通して神様の愛を知った時、生きていることは祝福であり、自分は愛されている存在だということを実感を持って感じることができた。それから『見るもの聞くもの全てに、自分の人格と深い関わりを感じ取って生きていく』生き方を意識できるようになり、人生が色づいていったことを覚えている。全てに意味を感じ、それらに喜びを持って接することで生き方は変わっていく。こう言ったことを考えるとき、私はいつも聖書の「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16)この部分を思い出す。

 また、吉川にはふじ子という妹がいる。物語の核心に触れる部分のため説明は省くが、彼女は聖書を一緒に読み、ともに祈り、語り合える最愛の人に巡り会う。彼女が最愛の人に向かって、「いいえね、たった一年二ヶ月でも、何だかわたしの過ごしてきた十何年の楽しかったことを全部集めても、この楽しさには比べられないと思ったの。」とにっこり微笑む場面がある。何度も自分の境遇や感情と照らし合わせて感銘を受けたり共感したりしているが、この同じ神様をともに賛美できることや、自分たちが今生きていて、目に入るもの全てに喜びを感じて共有できるうれしさというのは何事にも変え難い。わたしは夫と出会い一緒に住むようになって一年半ほど経つが、この期間はわたしの人生の中で間違いなく一番楽しかった。幸せ、という言葉だけでは表せられないくらい、そしてそれまでの人生と比べられないくらいよろこびに満ちていた。そして何より、クリスチャンになってからのこれからの自分の人生が、わたしは本当に楽しみなのである。愛する人とともに祈り、聖書を読み、人生のあれこれについて語り合える最愛の人、同時に信仰の友でもある彼と人生を歩めるということが何より楽しみで、だからこそ登場人物の「これからの人生への希望」が痛いほどわかるし、結末を知っている者としては一度本を置いて思いを馳せずにはいられなかった。

 物語の核心に触れてしまうためあまり展開には言及できないのだが、最後に解説で「内村鑑三氏は『文学は、この世と戦う武器である』という言葉を遺しており、それを踏まえて三浦綾子氏は『クリスチャンの生き方は、文学であれ、絵画であれ、また日常生活であれ、この世的なものに挑んでいるのだ』と言っていた」とあり、そして主人公永野信夫の生き方もまた、『この世的なもの』への挑戦であると語られている。クリスチャンになる前のわたしがもしこの本を呼んだなら、こんな純真な人はいない、どこかでぼろが出るはずだ、偽善的だ、理想論がすぎる、と思っていたことであろう。実際信夫にそういうことを言ってくる同僚も登場する。神様の愛を知る前のわたし然り、彼らは人でも神様でも信じることを極端に恐れて、この世の中は薄汚れていて当然だという気持ちで生きている。そのほうが裏切られた時に傷つかない上に、自分も正当化できるからだ。いわば自分の弱さに向き合おうとしていない、と言えるのではないだろうか。クリスチャンになったからいい人になれるとか、良い行いができるとは思っていないが、今なら信夫のような生き方が偽善から出ているものなどでは決してないことを理解できる。自分が彼のようになれるか、と問われればもちろんそれは本当に難しいことだと答えてしまうが、それでも彼のような人がいることに対して「ありえない」と一蹴することはなく、少しでも彼のようになれたらと自らを省みることはできる。

 この世的なものとの闘い、という言葉はすごく腑に落ちた。神様の前に素直な気持ちで仕え続け、私たちの心を綺麗な心に作り替えてください、と祈り続け生活を送ることは、ひとりの力では難しいと感じる。この小説のように『ヤソ』と呼ばれて差別されることはない今のような時代になっても、神様を信じている、キリスト者であるということは今の日本ではマイノリティーである。いや、それどころか一応キリスト教国と呼ばれているアメリカにいる今でさえ、「教会?行かないよそんなの。」悪気なく言ってくるアメリカ人もいる。もちろんそれは個人の自由なので悪いことではないのだが、そうした状況の中で信仰を強く持ち続けるというのは一つの闘いであるのかもしれない。これからの人生を神の栄光を表すために捧げると決めたわたしは、この内村鑑三氏や三浦綾子氏ら先人たちの言葉励まされた。あるアメリカ人のサックス奏者は『私は、私たちが音楽のための宗教的な器となるための空間を促進するような音楽を書こうとしている-私たちが実際にイエスのための器として行動するように』と言った。彼は演奏することも一種の礼拝行為だと捉えている。与えられた賜物をどう生かしていくのかというのはクリスチャン全員の人生の使命であるが、わたしは彼らに倣って生き方を模索していきたいと思っている。

あれこれと書いてしまったが、このタイミングで三浦綾子氏の作品を読めて本当によかったと思っている。そしてこの間日系人会の事務所に演奏のため夫と挨拶に行ったら、寄付された日本語の本が一冊50セントで売っており、その中に「氷点」上下巻、続編上下巻がまるまる置いてあった。その時点でわたしはすでに塩狩峠をほとんど読み終わっており、次はこれを読めと言わんばかりの存在感を放ちながらその本たちは目の前に現れたので、せっかくなので譲ってもらった。

本との出会いはふしぎなもので、その時々に必要な本、読むべき本というものが与えられているのだろう。また彼女の著作を通して色々思いを巡らせることができると思うと、読むのがとても楽しみである。


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Hina Oikawa 及川陽菜
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