ルドルフのドレス 1
古きドイツの闇は、透き通るようだった。
ゆびさきをそっと空気の中にかざすと、肌に溶けて消えてゆく。
指を蝋燭にして、月光を先に灯 ともすような、僕と弟の冬のあそびだった。
僕たちが生まれた時から住んでいるハインベルグのお屋敷は、墨を刷いたような漆黒の夜闇の中でも、蒼白くひかっていた。まるで嘘の空に、地上に月光があると示している。
人里離れた森の中に、ぽかんと浮くように建っている僕らの屋敷を、訪れ、帰る人は「怖い」というのだが、僕は馬車で街に出掛けて人込みに晒されるよりも、永遠にこの屋敷の中で弟のルドルフと共に過ごす方が良いと思っていたし、その願いは変わらずに続くと信じ切っていた。
夜風は鬱蒼とした森を揺らし、音を鳴らす。
僕は深夜にうすく瞳を開けた。
隣で眠るルドルフが、その風の音を聴きながら、安らかに眠っているのを見たことがある。彼の髪と同じ、金に白をひとしずく混ぜたような、淡いブロンドの睫毛が揺れて、月のように光っていた。
僕にとっての月は空ではなく、隣にあった。
――あの辛く悲惨な日が来るまでは。
『ルドルフのドレス』
「チェックメイト」
本棚で四方を覆った壁の、大きな部屋の中央で、まだ成長途中の13歳だった僕たちは、丈の長い椅子に座って盤を広げ、チェスを打っていた。
白のポーンを指で摘まみ、ルドルフの黒のキングの前に置く。
ルドルフはしばらく、サファイア色の大きな瞳でじっとキングを見つめていた。海のように深く、覗くと透き通った輝きを見せるその瞳は、僕のひとみと同じ色だった。
やがてルドルフは形の良い金の眉を寄せると、あからさまに残念そうな顔で肩を落とす。
「ああ、また負けた。やっぱリヒト兄さんは強いなぁ」
彼が白い手を後頭部に回し、がしがしと頭を掻くと、線の細いやわらかなホワイトブロンドが、庭に面した大きな硝子窓から差し込むしろい陽射しに当たって、きらきらと煌めいて落ちる。
僕と同じ色艶をした弟の髪が、天へ惹かれて舞い上がっていくのを、チェスの黒白を見るふりをしながら、ちらちらと見ていた。
「ねえ! もう一回やってよ! お願い!」
ルドルフが身を乗り出し、僕に顔を近付ける。彼の着ている白いシャツの、首元で結んだ赤いリボンが、ひらりとひとつ揺れた。
僕は考えるふりをして顎に手をつけた。だが答えはもう決まっていた。
「いいけど。また僕が勝っちゃうよ?」
そんな意地悪なことを言っていても、僕はルドルフともう一度チェスがやりたいと思っていた。
「ありがとう! リヒト兄さん」
ルドルフは手を胸の前で合わせてぱっとあかるい笑顔の花を咲かす。
僕はそれを見て満足して、口角をうっすらと上げた。
互いのチェスを崩し、再び盤の上で立てる音が室内に響く。
結局僕は弟に弱いのだ。僕と同じ顔をした、同い年のこの弟に。
ハインベルグ家の中庭には、広いテニスコートがある。僕はそのテニスコートでよく父とテニスをして遊んでもらうのが好きだった。一方運動音痴なルドルフは、僕たちがテニスに誘っても一向にのらず、テニスコートが見える位置の木陰に腰を下ろして、分厚い本を読んでいるのがいつもの光景だった。
だが今週の日曜日は、何故かルドルフは僕の誘いに乗って、珍しく僕とテニスをすることになった。
何故急にテニスをしてくれることになったんだろう。わからないが、積極的な弟の態度はとても嬉しかった。得意不得意が双子なのに違っている僕らは、いつも趣味が合わないが、互いが互いを肯定し、認め合って成り立っている。ルドルフは僕に合わせようとしてくれているのかもしれない。
確かに、父とテニスをすることもとても楽しいが、大好きな弟と大好きなテニスが出来ることは、何にも代えられない喜びだ。
「ルドルフ、行くよ!」
「う、うん!」
僕の右手に掴まれた黄色いテニスボールが、天へ高く舞い上がる。父とよく使っているので、少し毛羽立っているテニスボールは、5月の太陽のひかりで、うっすらと金色の糸を纏っているように見えた。太陽と重なると、逆光となって黒い点となる。そしてルドルフのコートへと加速度を増して降りてゆく。
ルドルフは天高く昇ったテニスボールを茫然と見上げていたが、徐々に自分の元へ近づいて来るにつれて、動揺し、あたふたと体を動かした。白いシャツを腕まくりした、彼の華奢な腕に掴まれたブルーのテニスラケットが震えているのが、こちらのコートからもはっきりと見える。
「あっ、あっ、あっ」
ようやく地面へと降り立とうとするテニスボールに、ルドルフの動揺はさらに大きく鳴り、どっちつかずに左右へ大きく揺れる。だが、面を天へ向けて変な構えをした彼のラケットにボールは落ちることはなく、狙ったように彼の額と鼻の間にぶつかり、勢いをなくして彼のコートへぽとり、と落ちた。
「あいたっ」
ルドルフは一拍置いて尻餅をついた。
緑のやわらかなテニスコートは、彼の体を傷つけることはなかったが、彼は両手できつく握っていたラケットを手から落とした。そして上半身を両腕で支えると、胸を張るように天へ向け、鼻をゆびさきで擦る。
「ルドルフ!」
僕は自分の赤いラケットを右手に握ったまま、ルドルフへ向かって駆けた。
「大丈夫か?」
僕がルドルフの傍へ膝をつき、彼の後頭部と背中に手を入れて支えると、ルドルフは僕に気付いてこちらを見た。サファイア色の彼の大きな瞳が揺れていた。
「兄さんごめん。せっかく兄さんが投げやすい球出してくれたのに」
「ほら、掴め」
僕は彼の背中から左手を離すと、彼に向かって手を差し伸べた。
ルドルフは僕の白いてのひらをしばらく茫然と見つめていたが、やがてゆっくりと片手を僕のてのひらの上に乗せた。彼の少し冷えたてのひらを感じると、僕はぎゅっと掴み、力を入れて彼を引っ張り上げて立ち上がった。
互いにしっかりと両脚がコートの上に立ったのを確認すると、ルドルフは僕の手を離し、代わりに微笑みを浮かべた。
「兄さんはすごいや。ボク、テニスもできやしない」
「何言ってるんだ。君は絵も上手いし、読書家じゃないか」
「兄さんはチェスと乗馬とテニスが上手い。僕達見た目はそっくりな双子だけど、得意不得意は似てないね」
「確かに」
ルドルフはそういうと、微笑みが徐々にうすれ、真顔になった。そして俯く。
一方その時の僕は、彼の様子に気付かず、ずっと笑ってしまっていた。今にして思えば、僕は馬鹿だった。何故あのとき、彼の変化に気付いてあげられなかったのだろうと、時々、自分で自分の胸を引き裂いてしまいたい衝動に駆られる。
ハインベルグの屋敷以外には灯りのないこの土地は、夜になると星がバケツの水をこぼしたように、一斉に輝き始める。黒と白がくっきりと分かれ、モノクロ映画が映し出されているようだ。だが、僕たちは白い月が天空の一番高いところへ昇り、星々が一番輝き始める頃には、深い眠りに入ってしまっているので、その夜空を見ることはなかった。
だが、今夜の僕は、その透明な黒を見ることになった。
ぼやけた視界が徐々に定まり、僕はベッドの天蓋の裏に描かれた絵画をしばらく見ていた。ホワイトブロンドの少しふっくらとした、なめらかな白い肌を持つ、裸のふたりの少年の天使が、色とりどりのパンジーやガーベラの花々が咲き乱れる紺碧の青空を飛び回っている。彼らの嬉しそうな笑顔に、僕とルドルフの遊ぶ姿が重なった。このベッドは父・ロバートが買ってくれた物だが、この絵画を選んだ意味について僕は考えたことがなかった。やはり僕たちをこの絵に重ねていたのだろうか。
今となっては気まずくて、父に聞けることもなかったが。
「ん……」
僕は上半身を起こし、目を擦った。日中よく動いたからだろうか、体に疲れが残っているのがわかった。少し気怠かったからだ。
(夜中に起きてしまうなんて、久しぶりだ)
両手をベッドのベルベットのシーツにつけ、ふと隣を見る。
(あれ……。ルドルフは?)
いつも隣りで共に眠っているルドルフの姿が無かった。半分ずつ左右に分けて使っている大きなベージュのシルクの枕は、ルドルフの側は窪んでいた。僕はそっとそのくぼみに手を触れさせる。まだ温かかった。彼がここを去って、それほど時間が経っていないことを意味していた。
枕と同じ色のきらめくベージュ色をしたシルクの布団をそっと片手で持ち上げる。布団のやわらかさと厚みが、心細くなっていたこの時の僕にはありがたかった。こちらも同様にルドルフが眠っていた箇所をさっと片手で撫でる。こちらもまだぬくもりがある。
僕は少し迷い、腰を上げるとベッドから降りた。水色のシルクの青いパジャマから出た白い足首が、素のまま寝室の床へ着地した。
ハインベルグの屋敷以外には灯りのないこの土地は、夜になると星がバケツの水を零したように、一斉に輝き始める。黒と白がくっきりと分かれ、モノクロ映画が映し出されているようだ。夜の闇は、星の灯りによってうっすらと青に染まっているようだった。だが、僕たちは白い月が天空の一番高いところへ昇り、星々が一番輝き始める頃には、深い眠りに入ってしまっているので、その夜空を見ることはなかった。
だが、今夜の僕はその夜空を見ることになった。
ぼやけた視界が徐々に定まり、僕はベッドの天蓋の裏に描かれた絵画をしばらく見ていた。ブロンドの少しふっくらとした滑らかな白い肌を持つ、裸の2人の少年の天使が、色とりどりのパンジーやガーベラの花々が咲き乱れる紺碧の青空を飛び回っている。彼らの嬉しそうな笑顔に、僕とルドルフの遊ぶ姿が重なった。このベッドは父さんが買ってくれた物だが、この絵画を選んだ意味について僕は考えたことがなかった。やはり僕たちをこの絵に重ねていたのだろうか。
今となっては気まずくて、父に聞けることもなかったが。
「ん……」
僕は上半身を起こし、目を擦った。日中よく動いたからだろうか、体に疲れが残っているのがわかった。少し気怠かったからだ。
(夜中に起きてしまうなんて、久しぶりだ)
両手をベッドの若紫色のシルクのシーツにつけ、ふと隣を見る。
(あれ……。ルドルフは?)
いつも隣りで共に眠っているルドルフの姿が無かった。半分ずつ左右に分けて使っている大きなベージュのシルクの枕は、ルドルフの側は窪んでいた。僕はそっとその窪みに手を触れさせる。まだ温かかった。彼がここを去ってそれほど時間が経っていないことを意味していた。
枕と同じ色の煌めくベージュ色をしたシルクの布団をそっと片手で持ち上げる。布団の柔らかさと厚みが、心細くなっていたこの時の僕にはありがたかった。こちらも同様にルドルフが眠っていた箇所をさっと片手で撫でる。こちらも温かかった。
僕は少し迷い、腰を上げるとベッドから降りた。淡い空色のパジャマから出た白い足首が、素のままベッドルームの床へ着地した。
裾の長いパジャマのズボンは、小柄な僕の身の丈に合っていなかった。両腕の裾と首回りについた花柄の細やかなレースも、本当は邪魔だし、恥ずかしいと思っていた。これは完全に僕らの母さんの趣味だ。眠っている間にほどけていた深紅のリボンが、胸元で両端が揃わず緩く結ばれていた。僕はそれを元通りに結びつつ、右手にカンテラを持って深夜のハインベルグの屋敷を徘徊していた。
暗い廊下に、右側に面した硝子窓から差し込む星々の光と、僕の手にしたカンテラが放つ淡い橙色が合わさる。闇は怖かったが、その光があれば何とか歩くことが出来た。
僕はたどたどしくも、歩みを止めなかった。緊張からか、喉が渇く。部屋にあった水差しでガラスのコップに水を入れて一口飲んでおけばよかったかなと後悔し始めていた。
「……ルドルフのやつ、一体どこに行ってしまったんだ」
僕は自分を安心させるように声を漏らした。か細く小さな声でも、狭い廊下には響くらしく、少し木霊しているように聞こえた。僕はこの時、この屋敷に住みながら、屋敷のどこに何があるかを完全には理解していなかったことを知った。僕の行動範囲は常にルドルフと共にあり、ルドルフが行かないところは僕も行かなかったので、両親や使用人が使っている部屋を把握していなかったのだ。
考えにふけっていると、前方に扉が少し開いている部屋が見えてきた。
「あれは……」
重厚感のある開いた扉から、ぼんやりとした青白い灯りが漏れている。
僕は羽虫が灯りに惹きつけられるように、ゆっくりとその部屋に近付いていった。扉の前まで来ると、扉と部屋の隙間に、顔を近付けた。部屋の中にいる者から見たら、僕の金の睫毛で覆われた青い瞳だけが覗いているので、怖く感じるだろう光景だった。
僕は、そこで信じられないものを目にしてしまった。
その部屋は、衣裳部屋だった。
数十のワンピースが部屋の壁という壁にかけられ、カーテンのように覆っていた。どれもシックな色合いで、派手さがなく、シルクやベルベッドを使用した上品なものばかりだった。ローブ・ヴォラントやローブ・ア・ラ・フランセーズといったゆったりとした貴婦人が着るような衣装ばかりだ。
その部屋には、中央に人物が背を向けて立っていた。
背丈は僕と同じ、小柄な人。緩くウェーブを描くブロンドを、ショートに切っており、白い首筋が覗いていた。
着ているのは、アフタヌーン・ドレス。
青い無地のシルクのバスルスタイルのツーピース・ドレスだ。シャーリングや襞付けにより、腰のスカートが立体的に装飾されていおり、沢山の細やかなリボンがついていた。
僕はそのドレスの光沢が、僕の持っているカンテラの灯りで鈍く煌めくのを見ていた。
いつの間にか僕の手には浮遊感があった。固く握っていたはずのカンテラが、地へと落ちていった。
カシャン。
カンテラが落ちた音で、ドレスを着た人物が振り返った。長い丈のドレスがふわりと翻る。
そこにいたのは、僕と同じ顔だった。
「ルドルフ」
弟のルドルフが、母さんたちが夜会で着るような上質なドレスに身を包み、夜の衣裳部屋の中で当たり前のように立っていた。
よく見れば彼のぽってりと柔らかな唇には、葡萄色の紅が差され、頬にはピンクベージュのチークが塗られている。目元のアイシャドウは紅と同じ葡萄色葡萄色。明らかに初めてではない、手慣れた化粧を施していた。
その眸眸が僕を見て動揺し、震えている。いつもよりくるりとカールした睫毛が、彼の二重に当たる。
僕は震えていた。いつの間にか呻き声をあげ、尻餅をつき後ずさろうとしていた。
ルドルフはそんな僕に、スカートの裾を引きずりながらゆっくりと近づいて来る。
僕は信じられないようなものを見た衝撃で、逆に歪な微笑みを浮かべていた。僕のショートのブロンドの毛穴から、冷たい汗が次々と浮かぶ。
「おいルドルフ、どうしたんだよ。こんな深夜に、何やってるってのさ。寝る時間だろうが」
きょろきょろと周囲を見渡した後、僕は再びルドルフに視線を戻した。ルドルフから見たら僕の笑顔は怖かっただろうと思う。歪で、とても幸福な笑みとは言えない。そして、何を考えているのかわからない男の笑顔を向けられた自分は女物のドレスを着ているのだ。
僕もルドルフが何を考えているのかが、さっぱりわからなかった。
ルドルフは白い瞼を半分伏せ、僕をじっと見つめていると、踵を返し、正面に置かれた飴色のクローゼットと向き合った。そのクローゼットはまだ開かれていなかった。
僕はそこに仕舞われているものを容易に想像してしまい、唾を飲んだ。
ルドルフは白く細い手で、クローゼットをゆっくりと開く。
僕はクローゼットの扉の動きに合わせて、徐々に目を見開いた。いつの間にか、僕の乾いた唇は、自分でもわかるくらいにわなわなと震えはじめていた。そしてクローゼットの扉が完全に開けられた時、僕は無意識に両手で口を覆った。
彼のクローゼットには、壁と同様、数十のドレスが仕舞われていた。ワインレッド色のイヴニングドレス、胸元が広がりモッコウバラの造花があしらわれたシルクサテン生地のウエディングドレス、ブラックの艶やかなシルク生地のプロムナードドレス、きゅっと引き締まったウエストラインとふわりとしたスカートのアフタヌーンドレス。
木製のハンガーでひとつひとつ皺にならないよう、丁寧に扱われているとみられるそれらは、普段から彼がそのドレスを着ていることを示していた。
「ルドルフ……これは……」
僕の掠れ声に反応し、ルドルフは後ろを振り返った。
形の良い金色の眉を寄せ、同じ色の睫毛を小刻みに震わせている。どこからか風でも吹いているのだろうかと思わせるような揺れであった。
「これが、僕の秘密」
ルドルフは玲瓏な声でそう言った。その声は、僕の喉から発せられるのと同じ声色をしていた。つんと上がった腰の大きなリボンの上で両手を重ね、ルドルフは顔を傾ける。
「ボクは……ボクは女物のドレスを着るのが好きなんだ。ドレスを着ている時が一番心が落ち着く。一番……一番自分でいられる……生まれてきてよかったと思えるんだ」
両手を離すと、クローゼットの中のドレスに触れ、柔らかなそのスカートに顔を埋めた。
隙間から見える彼の顔は悲し気に見えたが、僕の心情はそれどころではなかった。冷や汗は全身を覆い、僕の着ていたパジャマの鎖骨を覆うレースを濡らしていた。気持ち悪いくらいに。
「嘘だ……。嘘だ嘘だ……」
僕の足は勝手に動いていた。一歩、二歩と後ろに下がる。口を開け、首を左右に振ると、きらきらと輝く汗の粒が零れた。
「君が……ボクの双子が女の子の服なんか着ているはずがない。着られるはずがないじゃないか!」
「リヒト……」
ルドルフは悲し気な笑顔で両手を広げると、僕に近寄る。
「ボクを見て」
そして、クローゼットから一枚、両手の裾に黒いフリルのついたイブニングドレスを取り出し、自分の体に当て、一回転した。
「これが本当のボクの姿だよ」
「来るな」
僕は何か恐ろしいものに襲われたかのように、目つきをきつくし、彼を睨むと、一歩後ずさった。
「リヒト」
「来るな、来るな汚らわしい。2度とボクの名を呼ぶな。お前なんかボクの双子じゃない。ボクの片割れじゃない……。ボクの前から消えてくれ!」
僕は血を吐くような思いで叫ぶと、彼に背を向け扉へと走る。
「リヒト、待ってくれ! 行かないでくれ! ボクのリヒト。たった一人の片割れ……」
彼の悲痛な叫びが聞こえなかったふりをして、後ろ手で思い切り扉を閉めた。
ばたんという大きな音が、廊下へ鳴り響く。眠っている者が起きてしまったのではないかと思うほどの大きな音。だが僕はそんなことを気にしていられないほど、興奮していた。
歯を食いしばり、ふーふーと野犬のように荒い鼻息を鳴らしていた。しばらく腕を振ってブロンドをかき乱し、廊下を走っていた。
自らが体の周りに起こす風で、パジャマの裾がめくれ上がり、筋肉とぜい肉のない薄く白い腹と臍(へそ)の穴が露わになった。そうして自室の扉の前にたどり着くと、上半身を屈め、両手を膝につき、息を整える。次第に両目から熱い涙が次々と零れ、僕の白い手の甲を濡らしていった。
しばらく僕は動けなくなり、部屋の前で体を丸めて蹲って震えていた。僕とルドルフが、小さな頃からずっと共に過ごしていた部屋の前で。
翌朝、白を基調としたリビングの中央に置かれた漆喰のテーブルで、僕と父・テオドール、母・アマーリエ、祖母・アウグスタの家族4人で朝食の席についていた。
料理長のイェルクが作ってくれた質素だが奥深い味わいのある朝食は、ルドルフのお気に入りだった。テーブルには各々の前に、白い陶器のプレートが置かれ、その上に黒パン、カリカリに焼いたベーコン、ゆでたアスパラガス、くし切りにされた熟した赤いトマト、黄色と白がほどよく混ざったスクランブルエッグが載せられていた。僕は虚ろな目で、バターの油が浮いたスクランブルエッグを見ていた。このスクランブルエッグは特にルドルフのお気に入りで、なんでこんなにおいしいんだろうと僕が寝る前に彼に問うと、彼は「多分、卵とミルクの他にバターをひと匙入れていて、その塩梅がちょうどいいんだと思うよ」と微笑んで言っていたっけ。多分それは当たりだ。彼は舌が良いから。彼は自分には何の取り柄もないと思っているが、僕から見る彼は、僕にない感性を持っていて、魅力的だったし、それが羨ましいと思ってしまう暗い気持ちも幾分かあった。
そんな弟は、この朝、僕の隣にいなかった。朝ごはんだけが、空席の椅子の前に置かれている。僕の隣にいつも座り、僕よりも数分早く朝ごはんに手を伸ばしてしまう食いしん坊な弟はいなかった。初めてのことだった。
僕は嫌な予感がしていた。耳鳴りがする。きいんという静かだが鋭い耳鳴りが。無意識に右手で耳を押さえたのと同時に母の高い声がした。
「ルドルフ、まだ起きていないの? おかしいわね。あの子は家族の中では一番の早起きなのに」
「……ちょっと様子を見てくる」
栗色の固い髪をワックスで整えた父が、立ち上がりリビングのドアを静かに開けて出ていく。僕とルドルフの部屋はリビングの横にある階段のすぐ上の位置にあった。
母と祖母は、父の背を見ていたのだろうが、僕は体の表面を釉薬で固められたように動けなくなっていた。瞬きもできず、ただ目の前の冷えていく朝ごはんの一点を見つめ続けている。季節は夏へ向かおうと生命力に溢れ、動き出しているというのに、それに反するように僕の体温は徐々に下がっていった。
やがて父さんが階段を駆け下りる音が聞こえ、その耳鳴りが消されていった。リビングの部屋のドアが、無骨な大人の男の腕の力で、乱暴に開けられる。
「ルドルフがいない」
「え!?」
母と祖母が同時に驚く。僕は額に浮いていた冷や汗が、こめかみへ流れるのを感じた。
「坊や、一体どこに」
母さんが細いゆびさきを揃え、ピンクの口紅を塗ったくちびるへと当てる。多分彼女のゆびは震えていたのだろうことが、彼女の高い声からわかったが、僕はじっと俯いたまま、顔が上げられなかった。家族と僕の温度差が違っていた。
僕はそのまま立ち上がった。いきなり強い力で立ち上がったので、座っていた椅子が後ろに倒れ、ばん、と激しい音を鳴らす。それを気にせず、部屋を飛び出る。ずっと俯いていたので、前髪が顔にかかり、僕の表情はわからなくなっていただろう。
「リヒト!」
父の野太い声が背後から聞こえたが、振り返らず、幽鬼のようにふらりと力なく走り出していた。
僕はハインベルグ家の廊下を走っていた。
昨日僕が女装したルドルフから逃げるために走っていた廊下だ。
白とこげ茶色のマーブル模様の大理石の床は、いつもメイド達によって綺麗に磨かれ、庭に面した右側を覆う灰色の硝子窓の桟は、埃一つ無い。
僕の心は淀んで荒み切っていた。そのよどみは、不安から生まれていた。
不安に思っていることは起こっていない、ということを確かめるために、僕は走っていたのだろうか。
いつの間にか息は上がり、握りしめすぎた両こぶしは白くなっていたが、気にしている余裕がなかった。
(違う、違う……! 絶対に違う。そんなことは起こらない。起こるはずがない!)
血走ったまなこで、瞳だけは海のように青く、自分にそう強く言い聞かせていた。
廊下から庭へ飛び出すと、初夏の空気が、そよ風となって僕の周囲を包み込む。
僕のかいた汗が、ブロンドの頭皮全体から汗の玉となって、首すじを伝い、白い鎖骨や背へと流れ落ちてゆく。
僕は中庭の中央にある、みどりの水を張った池へと近寄って行った。
最初は荒く息を吐きながら、速度を落とさず近づいて行ったのだが、徐々に足の速度が落ち、息も静かになっていった。そうならざるを得なかった。
蓮の花とそれを彩る丸い葉が、幾つも池に浮いている。外側が白い花弁は中央に向かう度に紅色を濃くしてゆく。その中央にある主張された花托は色鮮やかで、僕たちの髪よりも濃い金色をしていた。
だが、今の僕の瞳には、清らかでうつくしい夏の蓮の花は、映らなかった。
蓮の花の咲き乱れる中央、仰向けになって浮き上がっていたのは、ルドルフだった。
泳ぎを楽しんでいるようなそんなポーズで、彼は死んでいた。
両袖と襟を細かなパールで縁取った、純白のドレスを着て、瞳は伏せていた。僕と同じ、金の長い睫毛が、彼の白い頬に影を作っていた。短かくやわらかな光の色をした髪も、みどりの池に後頭部がついて、ふわりと広がっている。蒲公英の花弁のように。
両の手首はすっと横に切られていた。そこから流れる血が、水彩のように池の中を漂っている。
僕の弟は、オフィーリアのように死んでいた。
しばらく体が固まってしまい、動くことができずにいた僕は、ただ呆然と池に浮かぶルドルフを見つめているだけだった。
どれくらい時が経っただろう。
僕は池にゆっくりと入った。
彼の周囲を、水が波紋となって流れていく。
ぱちゃぱちゃという音がしたが、僕にはそのすべてが聞こえていなかった。
ルドルフの傍へ近寄ると、その腹の上にそっと手を置く。
つめたく、硬くなっている腹。
そして、翼のように広がった手に、己の手を重ねる。
僕が眠れない夜は、いつも傍に寝ているルドルフの手を握って眠っていた。あたたかく、やわらかなその手は、今はつめたく硬くなっていた。
「ルドルフ……」
僕はルドルフを抱きしめる。水に濡れたルドルフは、驚くほど軽かった。濡れたドレスが含んだ水が、まだ濡れていなかった僕の体の箇所を、ぽたぽたと濡らしていく。
「ルドルフ、ごめんよ。許しておくれ。僕は君の事を何にもわかってあげられなかった。君はきれいだ。ドイツの街の、どんな女の子よりも、君はきれいだったのに」
熱い涙が、まなじりから溢れて止まらない。
白い頬を濡らし、みどりの池に落ちていく。透明なそれの奥には、赤い花が咲いていた。
物音が、何もしなかった。
ただ、僕の身を絞るような鳴き声だけが、残酷なまでにうつくしい夏の中庭に響いていた。
僕は、あんなに綺麗な遺体を、その後何年経っても見ることはなかった。水辺に漂う白いドレス姿のルドルフは、まるでオフィーリアの絵画のようだった。草木は息吹き、蓮は満開だというのに、ルドルフだけが死んでいた。僕と同じ顔。僕の片割れ。