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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年7月14〜15日】

※14日は、解読不明

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飛脚からの伝言

野田理右衛門儀江戸登被仰付、今日相立之所、昨晚江戸より御飛脚=無用之由申参、相止今日八つ半=兵助・治太夫・七左衛門登城

本日「野田 理右衛門」が、江戸に
登るよう(向かうよう)に命じられました。

ですが、昨夜に江戸を出発して
本日 盛岡に到着した飛脚から

「野田さんが江戸に向かう必要はなくなった」
と言われたので、江戸行きを中止しました。

代わりに、本日の八つ半(午前9時頃)に
「兵助」「治太夫」「七左衛門」が城に登りました。(江戸城へ向かった)。


江戸へ向かう様子を、AIに作ってもらいました。
↓↓



自殺した罪人は、さらし首

広嶋作左衛門田名部へ同心之者付越候所、道中無別条召連参、徒者之儀=候間、前手かねはめ籠舎申付置、尤籠番之者二人、御町之もの弐人申付置候所=、籠内=て首くゝり相果候由、田名部御代官書状=て申越、依之籠番之者油断仕·付、籠舎申付置候由、波岡与惣右衛門申上、作左衛門義ハ徒者之儀候間、首ハ大間村“札を立ごくもん-懸させ候様=と、今日田名部へ申遣ス

「広嶋作左衛門」が、数人の同心(従者)を連れて田名部(現在の青森県むつ市)へ向かいました。移動中は、特にトラブルは、ありませんでした。

徒歩で移動する罪人も、同行していました。

田名部に到着後、罪人の安全と監視のために、
籠舎(牢)に入れておきました。

盛岡の者2人と、田名部の者2人に
籠番の見張りを命じていました。

しかし、罪人は、籠内(牢)で首を吊って自殺していました。

田名部の代官から、盛岡へ書状が届き、この件を知りました。

籠番(牢)の者の監視が不十分だったのが原因です。

「波岡与惣右衛門」からも詳細を聞きました。

罪人を田名部に連れて行った「作左衛門」は、
本日、以下の指示を田名部に送りました。

「罪人は徒者(低い身分)でありながら自殺をした。罪人の首は、大間村(現在の青森県むつ市大間町・マグロの産地)で、さらし首にしてください。」



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