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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月15日】


南部重信に会いに来た人たち

十五日 朝晴天曇
(墨抹)
卯ノ半刻御出、辰/上刻御帰城、右両社へ
殿様於 御居間高知之銘々 御目見得、并毛馬內文右衛門・同三右衛門 御且見得、但此父子八去八日惣御礼之砌八病気って不罷出付也、其外華巻御給人初 御目見、小山田宇右衛門子吉十郎・金田一久左衛門子右平次・零石九十郎子弥九郎継目相済候、大田平右衛門子平左衛門、是八内蔵之介今度改名仕ル、欠端喜蔵子七右衛門・
宮野重次郎子運平名代一条弥內・亀森助右衛門子六之尉、右之通今日相済
一於 御居間大勝寺 御礼、但御在着之御礼先達不申上候付、今日申上ル

延宝5年8月15日。朝は晴天からの曇り

(墨で消された部分)

卯の半刻(午前6時頃)に、
殿様が御出発されました。

辰の上刻(午前8時頃)に、
御城に帰還されました。

この日は、右両社(神社)へ参拝されました。

殿様は御居間で、
高知出身の者たちにお目通りされました。

また、毛馬内(秋田県 鹿角市)の「文右衛門」と「三右衛門」という父子もお目通りが許されました。

この父子は、去る8日の総礼の時に、病気で参上できなかったため、今日改めて挨拶をしたのです。

さらに、新たに御給人(下級家臣)に任命された者たちが、初めて殿様にお目見えしました。

AIが作った、「金田一久左衛門」さん。

「小山田宇右衛門」の子である「吉十郎」
「金田一久左衛門」の子である「右平次」
「石九十郎」の子である「弥九郎」
も家督相続が済み、今日 殿様の前で、正式に家督相続が認められました。

AIが作った「大田平右衛門」さん。

「大田平右衛門」の子である「平左衛門」は、
「内蔵之介」に改名しました。

「欠端喜蔵」の子である「七右衛門」や、
「宮野重次郎」の子である「運平」も、
「名代一条弥内」としてお目見えしました。

また、「亀森助右衛門」の子である「六之尉」も、
今日をもって認められました。


さらに、御居間にて、
「大勝寺」へ御礼の報告を行いました。

以前に、先達(先代の家臣や役人)が述べなかった分も今日 合わせて申し上げました。


鷹狩りの担当者など

一御鷹之雲雀七ツィ、沖友庵・市原宗仲・渡部益庵・矢嶋立昌・黒河道益・遠藤慶悦-被下
一瀬川藤次郎義江戸役替=上候様被仰付候処、自今以後御鷹野之御供仕候様=と、江戸登御免、依之御供帳=書
付、以後八御鷹野之御供仕筈申渡之
(墨床)
一點一鉢宛、御新丸御奥方・御中屋敷奥方^□□被進、御使栃内長二郎

この日は、七羽のヒバリ(雲雀)を、御鷹(鷹狩りのことで、殿様に随行するお供の者)として、「沖友庵」「市原宗仲」「渡部益庵」「矢嶋立昌」「黒河道益」「遠藤慶悦」が受け取りました。

また、「瀬川藤次郎」が、江戸役を交代する旨を命じられ、以後は御鷹野(鷹狩り)のお供をするよう命じられました。

これにより、御供帳に記載され、以降の御鷹野のお供を任命されたことが伝えられました。

(墨で消された部分あり)

「御新丸御奥方」(殿様の妻)と「御中屋敷奥方」(殿様の妻)に、それぞれ一点一鉢ずつが献上され、「栃内長二郎」が使者として使われました。

AIが作った「御新丸御奥方」(殿様の妻)

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