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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月10日】


蔵の管理について

御土蔵之御さを共、今日野辺地井右衛門ヲ以 御前へ上ル、但御下向被成候へ八、例も 御前へ上御留守中計老中預候付て、右之通上ヶ可申と存候へとも十二日=上ル筈

盛岡藩雑書 四巻73P

御土蔵(蔵の管理や財産)に関して、
今日、「野辺地井右衛門」を通じて
殿様に報告します。

しかし、殿が御下向(お出かけ中)の場合は、
老中(高位の役人)に伝えてください。
老中が殿に話しておきます。

ちなみに、殿は12日に江戸に行く予定があります。

江戸城・大奥


雲雀は鷹の餌

御鷹之雲雀拾宛漆戸甚左衛門・東音左衛門・南彦八郎・宮部兵太夫・奧瀬井左衛門・漆戸甚之助、右之面々拝領、御使米内孫兵衛

盛岡藩雑書 四巻 74P

昨日、武士や高位の役人たちに、
雲雀を送りました。

贈り物を届ける担当者「米内孫兵衛」が
無事に、直接彼らに届けました。

雲雀は小鳥であり、鷹狩りにおいて鷹に訓練させるための獲物として重要な役割を果たしました。


自宅の庭で採れた梨

桜庭兵助庭前之梨子壱鉢献上之、野部地井右衛門披露

盛岡藩雑書 四巻 74P

「桜庭兵助」の代理人「井右衛門」は、
自分の庭で育てた梨を一鉢分、
上の位の人(おそらく殿様)に、献上しました。
「野辺地井右衛門」が殿様に渡しました。

庭で育てた季節の果物 梨が献上品として選ばれたことから、兵助の庭で収穫された梨が価値のあるものとして認められていたこと。
梨を一鉢(鉢に盛られた量)という具体的な量まで記されていることから、献上品の大きさや形式に一定の礼儀があったことが推測します。


鶴を贈ったよ

御鶴一居・御児鶴一居被遣、北九兵衛・中野伊織・八戸弥六郎、何も右両居宛被遣、為御礼何も登城之

盛岡藩雑書 四巻 74P

「御鶴一居」(親鶴)
「御児鶴一居」(小鶴)一羽ずつを、

殿様が
「北九兵衛」「中野伊織」「八戸弥六郎」
の3名に贈りました。

彼らは、武士や高位の者たちです。

鶴を受け取った彼らは、
登城し感謝の報告をしました。

鶴は、古来より日本において、長寿や吉兆の象徴とされており、贈り物として非常に貴重なものとされていました。ここでは、大人の鶴と子鶴が贈られたことから、非常に格式の高い贈答であることがわかります。


来月から塩の生産が本格的に

田名部蛎崎之内とうの崎-塩釜壱工望候、田畠井御鷹巣・烏屋=無構所=候由、御代官波岡与惣右衛門・氏家半助就申上候被仰付候、御役八当九月より焼立候間、小半役ノ積御金指揚、来年より八本役指上之者也 延宝五年八月十日 治太夫 兵助 蛎崎村山三郎

盛岡藩雑書 四巻 74P 

塩の生産地である、
田名部(青森)の蛎崎地区の
とうの崎(塔の崎)から、
以下の要望がありました。

『塩釜1つ分を使って労働をしたい!』

別件ですが、井戸・田畑や鷹の巣(狩の場)・
烏屋(カラスがいる場所)には特に問題がありませんでした。

以上の内容を、
代官の「波岡与惣右衛門」と「氏家半助」に、
伝えました。

9月から塩の生産が本格的に始まります。
割り当てられた八当(労働)に基づいて、
作業が行われます。

塩の生産に関連して、
小半役(小さい規模の役務)の分の金銭的な取り決めを調整し、来年からは八本役(本格的な役務)の割り当てが行われることを示しています。

以上の内容は、
「治太夫」「兵助」
そして蛎崎村の「山三郎」という人物たちが
関与しています。


海産物を輸送しました

白根網正味六千六百三拾四貫目、固数五百拾固、小数大小八百壱枚、十分一田中武兵衛御代官工藤善兵衛・中村七兵衛取揚、右山師清兵衛・久左衛門・左平次他領へ相出候、北上通黒沢尻御番所へ通手形遣ス、栃内与兵衛取次、訴状八当座箱二入

盛岡藩雑書 四巻74P

白根網(白根という場所で漁獲された魚や海産物を指すと思われます)

の正味は、

6,634貫目
( 1貫目は約3.75 kgなので、全体で約24,877.5 kg。非常に大量の漁獲物があったことを意味します。)

固数は510固
(「固数」はおそらく固まりの数を指していて、510の固まりを意味します。)

小数の大小は801枚です。
(サイズが異なる小さなものが801枚あったことを示しています。大きさや品質で分けられた細かい漁獲物も記録されています。)

江戸時代には、網で獲れた漁獲物を、
重さで測り、その量を記録していました。
また、江戸時代には「十分一」という税の形が存在し、
取引や収穫物から10%が徴収されました。

十分の一(獲物の10%)は、
漁獲物の管理・監督である、
「田中武兵衛御代官の工藤善兵衛」と
「中村七兵衛」が取り上げた。

山師である「清兵衛」「久左衛門」「左平次」
が、他領に物資を輸出しました。

北上通(北上川沿いの交通路を指す関所のような施設)の黒沢尻の御番所に、通行手形を送りました。「栃内与兵衛」が手続きをして、物資の運行許可が出ました。

江戸時代、物資の輸送には「通行手形」が必要でした。

別件で、訴状は8通・当座箱(保管箱)に2通入っています。


大名は現代の馬主みたいな感じ

殿様今日淡路丸於御馬場=三御馬屋之御馬共御 上覧、未ノ刻御出、申ノ刻終

盛岡藩雑書 四巻 74P

殿様(南部利幹)は、
今日、淡路丸(南部利幹が乗った馬)にて、
御馬場(馬を調教したり観覧する場所)で、
三御馬屋(南部利直が管理する馬小屋)の馬たちを御覧になった。

未の刻(午後14時)にお出ましになり、
申の刻(午後16時)にお帰りになられた。

「淡路丸」という名前から、これは淡路国(現在の淡路島)に由来したか、そこの名馬であった可能性が高いです。


帰ってきてくれてありがとう

田名部御代官波岡与惣右衛門 殿様御下向=付、為御祝儀塩鯛二つ、次飛脚=て老中迄書状被添、今日上之、則田鍍八右衛門以遂披露之

盛岡藩雑書 四巻 72P

田名部(青森むつ市)の
御代官(徴収する仕事)「波岡与惣右衛門」は、

殿様(南部利幹)の
御下向(江戸からご帰還)に際して、

御祝儀として、塩鯛二匹を献上しました。
(領主が領地に戻ってくることはめでたいこと)

また、飛脚を通じて、
老中まで書状を添えて送った。

今日、その書状が上京し(江戸に届き)、
すぐに「田鍍八右衛門」が殿様と老中に披露しました。

塩鯛は長期保管の効く、贈呈品としては喜ばれるものでした。現代の手土産も 生菓子より長期保存の効く食べ物の方が有難いですよね。


秋の味覚といえば松茸

松茸一鉢十五聖寿寺献上、田鍍八右衛門取次

盛岡藩雑書 四巻 72P

松茸一鉢(ひとはち・器のこと)を十五本、
聖寿寺に献上しました。

「田鍍八右衛門」が取次ぎを行いました。

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