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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年7月8日】
※写真は、Chat GPT 4oが作ってるよ。
※江戸時代の暦で書いてるよ。
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お千代様が亡くなりました
お千代様久々御煩被成、今日巳ノ刻御死去被成
お千代様は、長い間病気でいらっしゃいましたが、今日の午前10時頃に亡くなりました。
お千代様は、重要な人物であり、その死は公に報告されるべきものであったことが分かります。
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銅の取引と出荷
立石銅正味弐千四百拾九貫九百目、固数百七拾八固、惣銅弐千六百八拾八貫七百七拾七匁七分より、御役銅弐百六拾八貫九百目取上、外右之通勢州中村又右衛門・同国清兵衛買銅他領へ出候、改通可申也
立石(盛岡)の銅の純重量(不純物を取り除いた銅)は、2,419貫900目(9,075kg)、固められた個数は378個、総銅重量は2,688貫777匁7分(10,083kg)でした。
このうち、御役銅(政府や領主に納める銅)として、268貫900目(1,008kg)を取り上げました。
(生産高が1年に、1698年には約1,500トン・1700年代では6,000トンにもなり、日本は世界一の銅産出国となりました。)
銅の一部を、勢州(伊勢国・現代の三重県)の「中村又右衛門」と、同国(南部藩)の「清兵衛」が購入して、他の領地へ出荷されました。
確認して通達してください。
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