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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年6月17〜18日】


※当時の風景は、Chat GPT 4oが作っています。

※江戸時代の暦(太陰太陽暦)をもとにしています。

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(6月17日は、解読不可)

1677年6月18日 晴 当番:七左衛門

狂言師の旅費が足りない

江戸より下ってきた
狂言師(舞台役者)の
「篠塚 半兵衛」は、

盛岡での芝居を終え、
鹿角(秋田)での、検使の御前に立ちました。

そこから、
野辺地(青森)まで来たところで、
津軽(青森)には入れず、
さらに道中のお金もなく、
行くことも戻ることもできなくなりました。

そのため、
三戸・五戸・七戸・野辺地・横浜・田名部で
芝居を開くことができないので、
もう一度、盛岡で狂言を行いたいとのことでした。

役者たちは五戸(青森)に留まり、
「半兵衛」ひとりが盛岡へ行き、
町奉行に訴えました。

若殿様が、仰せ付けられた義理があるので、
赦免が得られなければならないと訴えました。
(半兵衛たちは、上から狂言をするという命令に対する責任を負わなければいけない。)

そこで役金(必要な資金)を取ることにし、
役者たちを五戸から盛岡へ来させるための
伝馬も用意しました。

そして、早急に上京するようにと
「半兵衛」は伝えましたが、
路銀(旅費)は請求できず、
前述の場所で赦免を得るように伝えました。

田名部を除く
三戸・五戸・七戸・野辺地・横浜
の5か所では、町を借りて、
2日ずつ狂言を行うようにと伝えました。

しかし三戸では、
去る2日より3日まで狂言を行い、
その後、五戸へ向かいました。

以上が、
「藤田太左衛門」と「金田一太郎兵衛」が
昨日、17日の状況を報告した内容です。



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