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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年7月9〜11日】
※写真は、Chat GGT 4oが作ってるよ。
※江戸時代の暦で書いてるよ。
※延宝5年7月9日〜10日は、解読不可。
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生類憐みの令まであと3年
十一日 朝曇巳/刻晴天、一五、六戸・花巻へ御鷹遣可申由、江戸より野田金太夫所へ被仰越、花巻へ御鷹拾五居、此御鷹師-付参者松岡三十郎、五、六戸へ御鷹拾六居付参者中野忠左衛門、右三十郎・忠左衛門=今日申渡之
延宝5年7月11日の朝は曇りでした。
巳の刻(10〜12時)には晴天。
7月15日に、六戸(青森)と花巻(岩手)へ
鷹を送り届けるため、江戸から「野田金太夫」にその任務が下されました。
花巻(岩手)には、
15羽の鷹が配属されています。
花巻の担当者は「松岡三十郎」です。
六戸には
16羽の鷹が配属されています。
六戸の担当者は「中野忠左衛門」です。
「松岡三十郎」と「中野忠左衛門」には
以上の任務が伝達されました。
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鷹狩りは、古来より「権力の象徴」でした🦅
岩手県の奥州地方は、鷹の産地と知られています。そのため、鷹の飼育して狩をする「鷹匠」は全国の城下町にいて、「鷹匠町」があります。盛岡藩にも青森の八戸にありました、今は飲み屋街になってるそうです🍻
この日記は、1677年のものなので、3年後の1680年に、江戸幕府 第5代将軍 徳川綱吉による「生類憐みの令」がでます。
3年後には、鷹狩も停止されます。
江戸時代の役所のお仕事
所々破損=付、川除わく材木零石山=て為取候、奉行=角伊兵衛・本館甚右衛門・平原助十郎、此三人申付遣之、委細御勘定場にて申渡之
川除け(防護柵)に
ところどころの破損があるため、
新しい川の除け(防護柵)を作るための
材木や石を山から取り出します。
役人の「角伊兵衛」「本館甚右衛門」「平原助十郎」の3人にこの仕事が命じられました。
詳細は、勘定場(江戸時代の税務署)で説明します。