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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月9日】


鉛を発掘したので税金を払う

九日 曇
一和賀沢内山=て、鉛御運上=申請候沢内新町仁左衛門拾分一指上、他領へ商買=付出候
鉛弐百貫目八和賀沢内志戸前山=て吹出候、鉛拾分一指上、沢内新町仁左衛門他領へ商買=付出候、右改通可申也

盛岡藩雑書 四巻 73P

延宝5年8月9日 曇

和賀郡 沢内山(現在の和賀郡西和賀町沢内新町)に住む「仁左衛門」は、鉛を運び出す「鉛御運上申請」をしました。

◎これは、鉛を採掘し、その一部を税として納める手続きを申請したことを指しています。江戸時代、鉱物資源は藩にとって重要な収入源であり、特に鉛のような金属は価値が高いため、藩への貢納(運上)という形で税金が徴収されました。

江戸時代、上流階級に特徴的だった病のひとつ。
白粉による鉛中毒の症状でした。 そこに仕える乳母は、鉛を含んだ白粉を顔から首や胸にかけて塗っていたので、乳房を介して白粉を舐めた乳幼児が、貧血・消化不良を起こし、中には脳膜炎の症状が出て死亡する例も見られました。


鉛200貫目(750kgほど)が、
和賀郡沢内の志戸前山(現在の岩手県雫石付近)で、採掘されました。

「仁左衛門」は、拾分一(じっぷんのいち:一割)の税を納め、他の領地に商売する手続き「商買付出」を申請しました。

税金なんてなければいいのに、って思う
「仁左衛門」さん。


雲雀を80匹捕まえたよ

一大殿様御在着之御使者川嶋覚右衛門、昨八日御立被成筈=候へ共、御書共不罷出候付、今日御立被成、依之角遠藤慶悦病後ノ御礼今日申上、鳥目二十疋上之鬼柳番所右衛門=御鷹之雲雀拾被下之殿樣今日午ノ刻大沢川原方へ御鷹野=御出被遊、申ノ下刻御帰城御鷹之雲雀被下面々、雲雀拾八戸頼母、同断野田左近・葛巻角右衛門・内堀織部、御使団治部左衛門、同拾宛
江刺市左衛門・毛馬内弥二郎・檜山五左衛門拝領、御使山本嘉右衛門持参之、右之面々則時為御礼登城之

盛岡藩雑書 四巻 73P

◎大殿様(南部利幹)に、
随行する使者である「川嶋覚右衛門」が、
昨日(8日)出発する予定でありましたが、
書状の準備が間に合わず、出発できませんでした。
そこで、今日出発いたしました。

これに関連して、今日、「遠藤慶悦」は、病気から回復したことに対する感謝を「川嶋覚右衛門」に申し上げました。

また、「遠藤慶悦」は、鳥目20疋(にじっぴき・通貨小判の単位・現代の日本円だと約二万)を、鬼柳番所右衛門に納めました。

当時の二万は、米30kgが買える金額だよ。
この量は、一般家庭で1ヶ月分の食料となる価値だよ。



◎殿様は、今日の午の刻(昼の時間帯)に、
大沢川原の方へ鷹狩りに出かけ、
申の下刻(午後16時頃)に帰城されました。

鷹狩りで捕えた雲雀(ひばり)を、
以下の者たちがそれぞれ10羽ずつ賜りました。

八戸頼母(はちのへたのも)
野田左近(のださこん)
葛巻角右衛門(くずまきかくえもん)
内堀織部(うちぼりおりべ)
御使団治部左衛門(ごし だんじべざえもん)
江刺市左衛門(えさししざえもん)
毛馬内弥二郎(けまない やじろう)
檜山五左衛門(ひやまござえもん)

がそれぞれ10羽ずつ拝領しました。

この雲雀を「山本嘉右衛門」が持参し、
これらの者たちはすぐに城へ登城して御礼を申し上げました。

鷹狩りで捕えた鳥(雲雀、ひばり)が、家臣たちに分け与えられる様子が記されています。こうした分配は、領主と家臣の絆を強める儀式的な意味合いも持っていました。

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