マガジンのカバー画像

盛岡藩雑書 四巻

54
延宝5年1677年〜盛岡藩の藩政日誌を現代語訳。 当時の風景はChat GPT 4oが作っています。
運営しているクリエイター

#盛岡藩雑書

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月20日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月20日】



南部利幹と重信の予定延宝5年8月20日 晴

【御三階の儀について】
今日は、永福寺において、
護摩祈祷が執り行われました。
若殿(南部利幹)の体調が良くなるように。

辰の刻(午前8時ごろ)に始まり、
申の刻(午後16時ごろ)まで続きました。

昼には殿様(南部重信)が
永福寺へお出ましになり、
(僧侶と)御対面されました。

この日記担当者でもある
「兵助」と「七左衛門」が参上し、
永福寺

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月19日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月19日】



雲雀の記録延宝5年8月19日 晴れ
鷹狩で獲れた雲雀(ひばり)を
下賜された(もらった)記録です。

黒沢伝兵衛 さん 7羽
四戸金左衛門さん 7羽
奥寺八左衛門 さん 7羽
高屋四郎左衛門 さん 7羽
高橋惣左衛門 さん 7羽

南部重信の予定本日、正午頃(午の刻) に
栗谷川方面へ鷹狩にお出かけしました。

午後16時頃(申の刻) に帰城されました。

この日記を書いてる兵助の予定いつもこ

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月18日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月18日】



南部重信の予定延宝5年18日 曇り

殿様(南部重信)は、
東禅寺へ仏参のために向かわれました。

午前8時過ぎに出発し、翌日の午前8時過ぎに帰還された。

南部利幹の予定若殿様(多分 南部利幹)がご不調のため、
永福寺の御新丸にて、
百座の護摩(相当体調悪いかも)
が執り行われました。

この際の御守札は、井門札(井御門札)を
「奥瀬伊左衛門」が持参して奉納しました。

この御守札は、江戸へ

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月17日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月17日】



延宝5年8月17日
晴天でした。
小さな地震がありました。

銅の持ち出しについて和賀郡水沢銅山では、
銅の産出量が「十歩一指(約10%)」です。
他領へ持ち出したいとの願いがありました。

この件については、
山仕(山仕事に関わる者)である
川口町の「喜兵衛」と
煤孫村の「伊兵衛」が申し出ました。

銅の総量銅の総量は 9,801貫500目 で、
そのうち小銭用の銅が 825枚です。

この

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月16日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月16日】



今後も雇ってくれますか?延宝5年7月16日のことです。

辰の刻(午前7時~9時頃)に曇りました。
後の時刻は、晴れました。

秋田領の下記3人は、
鉱山作業 に従事するために、
「白根御金山」(金の採掘が行われる場所)へ行ったことが記録されています。

労働者「中嶋主鈴」の宗旨(宗派)は、禅宗。
(彼の雇用担当者は、「関藏」さん。)

労働者「中村武左衛門」の宗旨は、同じく禅宗。
(彼の雇用

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月15日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月15日】



南部重信に会いに来た人たち延宝5年8月15日。朝は晴天からの曇り

(墨で消された部分)

卯の半刻(午前6時頃)に、
殿様が御出発されました。

辰の上刻(午前8時頃)に、
御城に帰還されました。

この日は、右両社(神社)へ参拝されました。

殿様は御居間で、
高知出身の者たちにお目通りされました。

また、毛馬内(秋田県 鹿角市)の「文右衛門」と「三右衛門」という父子もお目通りが許されま

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月14日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月14日】

延宝5年8月14日 晴天

今日は、「大智院」様(現藩主・南部重信の亡き正妻)の命日であるため、代参(多忙な南部重信の代わり)として「野田金太夫」が、聖寿寺に派遣されました。

(欠)
※以下文は、状態が悪くて解読不可。

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月13日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月13日】



お魚と神社延宝5年8月13日。

朝から小雨が降りました。辰刻(午前7時頃)からは薄曇りの天気となりました。

◎海栗(ウニ)の貝焼きが2つ
◎小鯛の焼き物が3枚
「兵助」が献上しました。
(献上とは 目上の人 多分大殿様にあげること)

八戸(青森)から「中里弥次右衛門」が
飛脚を通じて、鰹2尾を、献上しました。

御日待(祭礼)の祈祷のための御守札が、
「亀之助」様、「鶴之助」様、そして母

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月12日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月12日】



令和でいうと、激辛の紅鮭
寛政12年8月12日。

薄曇りで、昼ごろに雨が降りました。
しばらくして晴れた。
夜中にまた雨が降りました。

毎年恒例の仕事です。
鮭の塩引き(塩の中に保存した超辛い鮭)を引き上げるため、奉行から命を受けました。

小本(岩手県下閉伊郡岩泉町)には「摂待太右衛門」、市川(場所不明)には「小向次郎左衛門」
が今日の担当者になれ!と命令を受けました。

御扶持方(食糧

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月11日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月11日】



盛岡藩主・南部重信の厄払い延宝5年8月11日

昨夜から大雨が降り続いています。

「櫛引八幡宮」の祭礼が、15日に行われます。

神酒(おみき)2樽を、
八幡三位(僧侶の地位)の僧に託して、
送り届けてもらいました。

取次役(神事の手配・担当者)は、
「高橋惣左衛門」が務めました。

大殿様(南部重信1616〜1702)の、厄払いと立願(神仏に願いを立てること)について、永福寺の先達(導師

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月10日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月10日】



蔵の管理について御土蔵(蔵の管理や財産)に関して、
今日、「野辺地井右衛門」を通じて
殿様に報告します。

しかし、殿が御下向(お出かけ中)の場合は、
老中(高位の役人)に伝えてください。
老中が殿に話しておきます。

ちなみに、殿は12日に江戸に行く予定があります。

雲雀は鷹の餌昨日、武士や高位の役人たちに、
雲雀を送りました。

贈り物を届ける担当者「米内孫兵衛」が
無事に、直接彼らに届

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月9日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月9日】



鉛を発掘したので税金を払う延宝5年8月9日 曇

和賀郡 沢内山(現在の和賀郡西和賀町沢内新町)に住む「仁左衛門」は、鉛を運び出す「鉛御運上申請」をしました。

◎これは、鉛を採掘し、その一部を税として納める手続きを申請したことを指しています。江戸時代、鉱物資源は藩にとって重要な収入源であり、特に鉛のような金属は価値が高いため、藩への貢納(運上)という形で税金が徴収されました。

鉛200貫目

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月8日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月8日】



お酒のつまみをプレゼント「隆高院殿」「貞心院殿」は、

◎この2人はおそらく大殿様である「南部利幹(なんぶ としもと)」の身内か高貴な人物だと思うよ!

大殿様がご下向された(高貴な方が特定の地に訪れた)ことを祝うために、

一樽の肴(二樽)
一折の肴

をそれぞれ贈呈されました。

◎肴とは、お酒のつまみ、魚や珍味のことだと思うよ!樽に入れたもの・折り箱に入れたもの、それぞれを大殿様にプレゼ

もっとみる
盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月7日】

盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月7日】



鹿角の境界線鹿角(秋田県)で、論山(領土の境界を定める山)の塚(境界を示すための塚)の工事が完了しました。

監督者である「出石源兵衛」と「臼井仁右衛門」が、昨日、鹿角から帰ってきて、今日、上役にその完了を報告しました。

高価な献上品
「御鶴(おんつる)」
「御児鶴(おこづる)」という

特別な鶴2羽を、
「兵助」が拝領(目上のひとから受けとること)しました。

そのお礼として、
「右近」が

もっとみる