忙しい日々でも忘れたくないこと
私は良くも悪くも、自分を忙しくするのが得意だ。
それは、色々なことを欲張りに手を出してあれこれやってみたくなるから。
よく人に行動力があるねとか言われる。うわべだけ見たらそうかもしれない。
でも実際は新しいものや環境に手を出したら、キャパを超えてしまうくらい忙しくなって、
充実はしているけどたまにふと我に返って苦しくなる。(単なる自爆)
誰も義務としてそれを私には与えていないのに、こんなに一生懸命になって何になるっていうのか。
大抵、何にもならない。
やってみたい!できた!なってみたい!なれた!と簡単にはいかない。
残念ながら世界はそんなに甘くない。
そのときすぐに目に見える何かになったり、
強く感じられる確証には発展しない。
だから私は「意味がない」とか「もうここで学べることはない」と思ったらそれから離れてしまう。
でも、そういう理由じゃないときだってある。
私にはそれが必要で、
すごくすごく大好きで、
価値があるものだとしても、
ときにはそれを手放さなければならない。
人は快適な空間に居続けていたら、成長が止まってしまう。
私はまだ止まっていいような状態の人ではない。
まだまだこれから系人間だ。
年月が経つにつれて環境や選ぶものが変わるのはみんなそうだ。
でも私は、それを人より数多くこなしていかないといけないような気がする。
それが良いことなのか悪いことなのか一概には言えないけれど、とにかくそれをしていかないと新しい世界に飛び込んでいくことができない。
それは私にとって生き甲斐であり、エネルギーであり、自分を自分らしくする大切なもの。
4月は出会いと別れの季節とか言うけれど、出会いと別れが一年に一回とは限らない。それよりずっと多いかもしれないし、逆に滅多に起こらない人もいるかもしれない。
それはその人が選んだ道の枝分かれの数と、それをどのくらいその人が見つけられるかで決まってくる。
私がスウェーデンの大学を選んで、今ここに住んでいるのは偶然が重なった結果だけど、その偶然は全部自分から飛び込んだ世界の先にあったもの。
だから自分の決断に満足しているし、何があっても全うしたい。
これからどんな道を歩いて、
どんな寄り道をして、
迷路の中で半べそかきながら何往復も同じ道を通って、
泥道で泥が跳ね返ってきて顔をしかめて、
カラカラの砂漠のようなところを彷徨っていくのか全然見当がつかない。
私が歩いている道は歩くほどちょっとずつちょっとずつ何かがおかしい。
そのせいでいろんな人に心配をかけたり、迷惑をかけたりしていることは絶対に忘れてはならない。
自分の行動に責任を持つと言うのは簡単だけれど、実際の私はまだ自立した大人ではないし、異国に暮らす外国人だし、弱虫だ。
それから、もうひとつは、
選んできた道が全然違う系統の草が生えていたり、塗装があったりなかったりするかもしれないけれど、
その全てが繋がって今を作っていて、
その一つ一つがなかったら今の私はここにはいないんだってこと。
何か一つが欠けていたり、枝分かれBを選んだりしていたら
今と全く違う今があったんだってこと。
私は今の生活や自分がおおよそ好きで、満足している。
でもそこに安住して成長をストップできるほど好きではない。
だからもう少し道をじっくり観察して、
面白そうな色があるところに、
良い匂いがする方に、
楽しそうな音が聞こえる方に進んでみたい。
一つ大きな決断をしたので今の気持ちを書いてみた。
またね!!!
😝