ジブリのかぐや姫観て脳内爆発した話(?)
かぐや姫のラストシーン。
月の世界で作られた服を着た瞬間、かぐや姫は親の目の前で地球での思い出を全て忘れてしまう。
青い地球を月から眺めてるシーンでも、未練とか名残惜しさのない、空虚な顔で地球を見ている。私なんで今月と地球の間にいるんだっけ…みたいな顔で。
このシーンでほとんどの人は悲しい、かわいそうと思うだろう。
でも私は羨ましいと思ってしまった。
羨ましい。それは、きっぱりと一気に潔く忘れられて、次の世界で何事もなかったかのようにそれなりに楽しく過ごせているから。
もちろん、大好きな人の前で思い出を全て忘れるということほど、
そして相手は思い出や別れを心に持ち続けていることを知らないことほど、生々しいものはない。
だけど、やっぱり、たいていのものはいつか必ずわすれてしまう。
私がスウェーデン留学を終えて成田空港に降り立ってラーメンを食べた瞬間にスウェーデンで食べた美味しかったものを全部忘れたりはしない。
家に帰って、湯船に浸かった瞬間に湖で泳いだスウェーデンの夏の記憶が頭から綺麗に無くなったりしない。
でも、いつか忘れるかもしれない。忘れたことに気づかないまま、どこか空虚な気持ちで忘れた思い出たちを恋しく思いながら、日々を過ごしているかもしれない。
月で涙を流しながら、地球で覚えた歌を歌う人のように。
そう思うと、少し悲しくなった。
悲しくなりたくないから、いっそ根こそぎ消してしまうことができたら痛くないのにとも思った。
でもそれは無理な話。
だから私は記憶を取り戻したり、消したり、事実が入れ替わったり時間を飛び越えたりする系のドラマと映画に惹かれるのかもしれない。
時をかける少女とか
シグナルとか
ツナグとか
現実世界で起こっていることはこうだ。
スウェーデンに来て一年半。
その前に二年弱東京周辺で暮らしていた日々をスウェーデンライフが塗り替え始めている。
スウェーデンの中で小さめの街に住み続けたあとに東京ほどではないけどそこそこ大きい街に行ったら、
人酔いしたり、周りより歩くのが遅かったりする自分がいることに気づいた。
嬉しい反面、悲しくもあって、でも嬉しかった。
2020年1月。日本からスウェーデンに移住。
スウェーデンにいても日本時間で生き続けたいな
冬、暗いだけじゃん。さむ。絶対この街好きになれない
何食べても美味しくなくてどんどん痩せていって私どうなっちゃうんだろう。
クラスメイトがパキスタン人しかいなくて草。友達作れるかな。
三年半ずっと1人なのかな。
そういう行きすぎた考えをしてた留学初期。当時は本気で思ってた。
でも一年半経ってみて、どれも反証された。
私はもう1人じゃないし、素敵な友達もできたし、
ご飯も美味しいものを見つけたし、
ここにも美しい四季があることも知った。
でもそれと引き換えに、東京での生活…
お金はかかるけど、人は多いけど何でも揃ってて、食べものはいつもおいしくて、会いたい人にはすぐに会えて、欲しいものを手に入れたいときに行動に出やすい環境が目の前にある。
そういうものを手放し、失って、忘れてしまった。
なんとも悲しいことだ。
新しい土地で自分らしく幸せに暮らすのはどれほど難しいことか。
留学してみてよーくわかった。
私は要領良くはできない、泥臭く力技で小手先系人間だから、一年半もかかった。
たぶん、埼玉に住んでたときも
あ、ここでの暮らし快適だなーって思うまで一年はかかった。もっとかかったかも。
ジブリのかぐや姫の中で、歌が出てくる。
自然を愛でて、季節の移り変わりを追いかけて生きる。
それが生きる意味、生きがい、生きてる心地に通じてくるんだって言ってるんだと思う。
自然を愛でて、季節の移り変わりを追いかけて生きる。
え、それだけで生きてる心地するの?って正直なところ思ってた。
目標、周りからの評価やプレッシャー、義務、役割、出てはいけない枠から飛び出ない選択。
そういうものから逃れられないのが現実。
人間って生まれてから10年くらいと死ぬ前の10年くらいしか時間を自由に使えない、つまり自然を愛でてーうんぬんができない場合が多い気がする。
生まれて10年くらいしたら勉強必死にして、そのあとは必死に働いて、、、のレースに出ないといけない。
そういうシビアな現実と、かぐや姫が放つ暮らしのあるべき姿とのギャップにやられた。
忘れたくないことはちゃんと残しておこう。
そうすれば絶対に忘れない。
別に留学先を地球、母国を月に例えているわけではないけど、
留学中のことをなるべくたくさん覚えていたいなと
忘れたり、忘れたという事実を忘れたりしたくないなと思った
です!!!
またね!!!
(写真はヨーテボリ🇸🇪の植物園みたいなところのやつ)
😝