性自認の話
セクシャル的に(多分)マジョリティ側の私が、セクシャルマイノリティのシナリオを書こうとしている。すると、テーマをどうしていいか分からなくなる。
LGBTの記事とかインスタ垢とか見ていて毎回思うのは、「自分で自分のことをカテゴライズしないと生きづらい世の中って、なんだかなあ」ってこと。
LもGもBもTもその他のジェンダーも、他人が当人に押しつけたことじゃない。マジョリティから外れていると感じたその人自身が、自分の居場所が欲しくて、落ち着ける場所を求めて、探しに探した結果見つけた「ハッシュタグ」だ。
だけど、70億人もひとがいれば、70億通りの恋愛観があるに決まってるくない?
異性が好きなひともいるでしょう、同性が好きなひともいるでしょう、キスはOKだけどセックスは無理なひともいるでしょう、そもそも恋愛感情をもたないひともいるでしょう。
容貌や性格がまったく自分と一緒のひとなんて、この世に1人もいない。ならば、恋愛観やジェンダーだって、まったく自分と一緒のひとなんて、この世に1人もいない。そう考えていいんじゃないかと思うのです。
私がこういうことを言うのは、マジョリティとは違う自分の一面をなんでもかんでもカテゴリ化して、安居してしまうのはあんまり良くないんじゃないかなあと思うから。
今後の人生なにがあるか分からないし、誰に出会うかも分からない。今まで「私はひとのことを好きにならないアセクシャルだ」と思っていても、70歳くらいになって突然運命のひとが現れるかもしれない。なのに、自分で自分に付けた「アセクシャル」というハッシュタグのせいで、このひとはせっかくのチャンスを不意にするんじゃないか。
別に何も私は、恋愛できない人間は未熟なだけで、恋愛を経験することで成長できるって言いたいんじゃないんです。ただ、カテゴライズして同じ仲間と仲良くするということは、同時にその他のカテゴリを排斥することにつながりません?
いつも思う、「多様性」って聞こえはいいけど、要は「俺とアンタは違うからほっといてくれ」ってことだ。
ひととひととの「多様性」は、自分と他者を分断し、自分を一義的に解釈する言葉だ。
ひとが目を向けるべきは、自分の中の多様性なんじゃないかと思う。男に恋する自分もいれば、女に恋する自分もいる。恋愛とかキモって思う周期もあるし、性欲が抑えられなくてしょうがない時期もあるかもしれない。
想像以上に、自分はカラフルだ。
とはいえ、私がこんなことを言えるのも、自分がマジョリティ側の人間だと自認しているからです。もしマイノリティ側の人間だったらこんなこと言える余裕ないかもしれない。「今まで散々いろんなこと試した結果がこれなんだよ」って思うかもしれないし、「所属感のなさに耐えられない、同じ思いをしているひとと出会いたい」って思うかもしれない。
すごく思慮に欠けた文章を書いてしまったかもしれない。不快な思いをした方がいればごめんなさい。
でも私も、世界70億人の誰とも違う私として、考えを世に発信したかったのです。